そこで食えるか、死ねるか、愛せるか一一異文化の私的そして映画的体験 月刊『私学公論』 5月号 私学公論社
記録映画の仕事がら、いくらか異文化の世界に身を托したことがある。シベリア横断、ユーラシア大陸の八ヵ月、カナダ・インディアン居留地の七ヵ月、内戦下アフガニスタンの六ヵ月をはじめ、欧州諸国やキューバ、ドミニカ、アセアン五ヵ国、インドなどだ。延べ三年あまりになろうか。これらはほとんど長期ロケのためだ。この原稿のテーマは「異文化は理解できるか」だが、映画は深浅の差はあれ映像によるその理解度の記録だ。
今日、生活的に異文化と隣り合わせに生きる時代となった。その受動的なしきみが問題になっているが、私の異文化との遭遇はこちらから求め、買ってでたしきみであった。
昭和30年代のはじめのころ、テレビもまだスタートしたばかりで、映画が力をもっていた時代、アメリカの占領も終りを告げ、なかば禁足状態だった映画メディアも海外ロケに向けてはばたきだした。その代表作である『カラコルム』や『メソポタミア』『南極大陸』といった探検紀行映画は私たち新人の羨望の的であった。
その映画の監督やカメラマンに聞いたロケの体験談で心に残った言葉を紹介しよう。
「記録映画のロケは新聞記者の取材より三倍苦労する。だがその分三倍勉強になる。記者はメモすればすむが、こちらは撮影という<肉体労働>をするんだからな」。
「見ず知らずで、言葉も通じない現地の人間との交渉はな、最後のところは目と目だよ。グッと見かわす眼(まなこ)だぞ」。
極めつけは「一歩現地に入ったら、腹のなかでこう三べんつぶやくんだ『ここで食えるか、死ねるか、愛せるか』。そうすると腹が据わってくる」。
この最後の浪速節めいた一句はこたえた。察するに、「食えるか」は仮にもそこで暮らすだけの覚悟ができるかの意味であり、「死ねるか」は例えば万一その地で果てることがあっても悔いはないかの正念の自問か。いかにも殉教者じみている。「愛せるか」は人間一般への愛ではなく、かといって女遊びでもない。その地の女性を妻として添い遂げるまでにそのひとびとに惚れこめるかという架空幻想と聞いた。そこまでオーバーにならなくてもと苦笑を禁じえなかったが、相手がなかばまじめだけに迫力があった。
また「最後に物を言うのは眼だ」というのは、その人のもってうまれた人相骨柄にもよろう。いつだったか、ベトナムの戦争写真で知られた故岡村春彦氏がベトコン側に囚われた際の心得なるものを伝え聞いたことがある。彼はジャーナリストは丸顔にかぎると「ジャーナリスト・丸顔論」をもっていた。相手から敵対者側と疑われており、しかも言葉の通じない状況に置かれているとき、「もしギスギスの痩せ顔だったら、殺されていたかも知れない。丸顔は善人、これは万国共通の人相だ」というのだ。彼が育ちの良さそのままの福々しい童顔の持ち主である事を知るだけに説得力があった。長い幽閉中にも、おおらかに振る舞い、ついに気の置けない関係になり、そこで世界的なスクープ写真を撮らせてもらったという。「眼」といい、「丸顔」といい、それが並々ならぬ体験の集積と自信に裏づけられていることを知らされるのは後のことであったが。
「新聞記者の三倍の苦労と勉強」には付言を要しよう。これにはニュースカメラマン育ちの映画人にありがちな、「物書き人間」への競争心がなかったとはいえない。
シベリア横断ロケの時、朝日新聞記者と共同取材であった私の経験からいって、確かにフィルム取材は、ペンの三倍ほどの手間をくう。時間もかかれば、人手のかかりかたもそんな具合である。カメラを据え、対象のひとびとの了解と協力を取り付け、撮影に適したチャンスを待つといった映画の時間に、新聞はつきあってはいられない。ほかの話題を拾うほうがいいに決まっている。だからもともと比較自体が無意味だ。表現の質、いわゆるメディアの質が違うからだ。
それはさておき、彼の言葉に気になったのは、その<肉体労働>の一言だ。それは汗水垂らしての、あの労働ではなく、ましてあの労働者の階級言語でもない。つまり撮影の現場の動き方のダイナミズムを指しての言葉であろう。ペン取材の現場のように、直感力や洞察力を働かせながら、黙々とメモを取るといった物静かなおもむきと、撮影取材とはまったく違う。重いカメラを担いでポジションを探し歩く、三脚をたてる、ライトを照らす、マイクを設定する。同じ事象を捕らえるのだが、ただの観察や目視とちがって、カメラという機械を通して映像をもとめる<肉体労働>が、映画にはある。このウロウロしているかに見える段取りの間に、カメラマンは考え、選び、画に凝ることができる。言葉は通じなくとも、まわりの人はそんな作業を見守って待ってくれるものだ。それが映画の「特権」だと言いたかったのだろう。たしかに撮影の中では人の「三倍見る」ことにもなのだ。
先輩の言葉から海外ロケのノウハウを聞き、自分の今後の映画手法を練ることは実に楽しかった。ドキュメンタリーの原型、原精神ともいうべきものがそこにあったからだ。
物ごとを視覚化するのが映画だったらつまらない。発見と未知なるものとの遭遇がサスペンスを孕む。だが、いわゆる文化映画、教育映画にはシナリオ重視の傾向が強かった。文字上の構成の段階、つまり撮影以前にナレーションができていたりする。予見がどう覆されるかが記録映画の醍醐味に思われる。「予定原稿」の視覚化では演出家は要らないではないか。その点いわゆる「旅もの」、とくに「海外もの」はちがった。いつに演出家、カメラマンの作家の質と才能に任されている。戦時中の亀井文夫の『上海』『戦ふ兵隊』にせよ、先にふれた昭和三十年代初めの画期的長編ドキュメンタリーにせよ、「旅もの」「海外もの」である。異質、異文化を対象にしてこそ驚きとときめきがあり、それを核にしで個性的な映画表現や作家としての飛躍ができたのではないか。そんな解釈と願望を「海外もの」に托していた。私たち世代には世界に対して根深い閉塞感があっただけになおさらだった。
戦争とともに軍国少年として育てられた私たちの世代は、世界地理への平衡感覚を歪められいた。中国、東南アジアの地図は大日本帝国の軍事的版図である大東亜共栄圏としてことあるごとに新聞に登場し、その要衝(主要都市)は「重慶」猛爆とか「パレンバン」攻略といった戦争ニュースで誰もがそらんじていたほどだ。欧州の地図ののみこみ方も似たようなものだ。各国の国境は樞軸国ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリアの侵略攻防図の下絵のようで、各国の存在感は薄かった。英語の使用がはばられ、欧州映画も禁止された時代である。国際的な地理感覚は正常に発達しようもなかった。
敗戦後、民主主義教育に一変する。目からうろこが落ちたように世界が見えてくるかに思えた。国際感覚の必要は叫ばれたが、それも歪みはじめた。冷戦構造がそれだ。世界は東西両陣営に二分された。「永世中立国スイスを手本に」という新憲法賛歌はつづかなかった。反共、反ソのピークに朝鮮戦争(一九五〇年)が勃発、日本各地の軍事基地化と再軍備が進むにつれ、冷戦構造図の中で、日本は東側のソ連、新中国、いわゆる北朝鮮に対する、西側陣営の安全保障ラインの最前線に位置づけられた。沖縄列島などは外国に等しい存在に置かれた。
私たちはアメリカを通して世界を見た。アメリカへの理解度で国際感覚がはかられた。『シベリア物語』などのソ連映画(以下、文中「ソ連」を使います)がそれこそ異文化の眩しさをもって迎えられた。それほどにアメリカ文化一辺倒の世界につかっていたのだ。
若者の間に「日本脱出」という夢遊病のような流れが溢れはじめた。それは「もはや戦後ではない」といわれた昭和三十一年ごろからだ。そのバイタリティーの根拠にはこうした戦中戦後二〇数年におよぶ半鎖国状況と、壊れ歪んだ世界像の痛みがあった。異文化を知りたいという志向があったわけでも、観光ツアーでもない。日本でなければどこでもよかった。閉塞状況を食いやぶるようなハングリー精神の噴出だったのであろう。私もそのひとりになりたかった。だが、それもままならなかった。
私は学生運動のなかで、反レッドパージ闘争、朝鮮戦争反対の運動をにない、社会主義につよくひかれた。全学連中央に参加したことから、占領軍の超憲法的指令である団体等既制令に登録され、いわゆる「反米・共産主義者」として、アメリカ大使館にリスト・アップされ、その国はもとより、沖縄、韓国へのビザも出なくなった(数年前まで、アメリカへのビザは「キャンセル」だった)。私の異文化への回路は冷戦構造そのままに分断され、私の海外への回路はもっぱら東側向きという結果を招くことになった。
海外で撮りたいテーマには事欠かなかった。新中国の建設、キューバ革命、ベトナム解放戦争をはじめアジア・アフリカ・ラテンアメリカの民族運動の波動などに心おどった。スターリンの死、そしてフルシチョフの「雪どけ」を受け、国際文化交流が活発になり、。日ソ間のそれも例外ではなかった。その流れにのって企画されたのが、国産車によるシベリア横断の記録映画『シベリア人の世界』だった。
これは電通(トヨタ)、朝日新聞、日本映画新社の共同企画であり、新聞、映画、テレビのメディアで、同時に新シベリヤの紹介キャンペーンをしようというものだった。ソ連政府はノーボスチ通信社との合作を条件に、この処女地の取材を許した。ここへの入域は西側報道としては戦後初めてという。
私だけでなく、冷戦による「鉄のカーテン」の向がわ世界は、政治的にも文化的にも、もっとも知りたい「異文化のかたまり」だった。とくにシベリアはユーラシア、すなわちアジアだ。外電が極東の中ソ国境紛争を報じていたのが気になった。
ともあれ、私がこの映画『シベリア人の世界』の仕事で、海路ナホトカに向かったのは、昭和四十二年、ロシア十月革命五十周年記念の年だった。ブレジネフ執権後間もない時期であり、日本海航路を北上する船のラジオで革新首長、美濃部東京都知事の初当選の報をきいた。
ソ連側のスタッフは日本語通訳ふたりと通信社のチーフに運転手の四人。こちらは映画スタッフ四人のほか朝日新聞経済部の記者、写真部員。それにトヨタ自動車の技術者二人の計十二人。使用車はクラウン、コロナ、そして誕生したばかりのカローラの三台である。ナホトカからモスコウまでの「五千キロドライブ」とうたったが、その間の軍事地帯、国境、外国人に未公開の地域は走れなかった。鉄道、航空機も使っての旅だった。
撮影はでだしからつまづいた。ソ連側は客人扱いのつもりだった。映画スタッフの扱い方は知らなかった。
まず、その最初の取材地ハバロフスクで、映画スタッフだけで郊外ののロケハンにドライブしたのが通報でばれ、「非常識ですよ!」と絞られた。ついで許可なしでホテルの屋上から街の俯観撮影をしたことで、市当局から厳重注意を受けた。高所撮影は軍事秘密保持上、禁止されていた。これらはわれわれ側の勇み足で反論もなかったが、かねて文書で申しいれてあった、中ソ国境のポイントでの警備隊のインタビューの取材は、このロケの前半にわたり尾を引いた「スパイ嫌疑」の火だねとなった。
日本出発の直前、AFP通信の記事で国境紛争のベタ記事を読んでいた。社会主義を信頼していた当時の私は、この目でその現実を確かめたいと思ったのである。インタビュー相手の想定は、この地帯で見掛けたアジア人出身の兵士たちであった。「同じアジア人であり、社会主義をともにするソ連と中国の兵士が、アムールの河ひとつへだてて銃口を向けられるのか?」と質問するつもりだった。ソ連側スタッフは困惑した。「質問の趣旨は分かるが、何故『アジア人兵士』でなければならないのか。市民の声でもいいではないか」と逃げ腰になって埒があかない。ついにその許可伺いをモスクワに求めた。「誤報」を解消したい位の気持だっただけに「これがインターナショナルの国か!」と鬱積をつのらせた。街頭は「革命五〇周年」で飾りたてられているのに。
待つこと数日、私はハバロフスクに映画撮影所のあることを知り、見学をさせてもらった。じつは藁をもつかむ気持で当地の映画人同士と話をしたかったからだ。「ドキュメンタリーには証言力が必要であり、それにはこうした映画的設定が要る」ことを彼等なら理解してくれよう。そこから、打開のヒントが得られるかも知れない…。だが無駄だった。その撮影所にはニュース取材の部門はなく、文化映画しか撮っていなかったし、好意的に見せられたそのフィルムも映像表現には凝っていたが、いわゆる「社会主義リアリズム」の片鱗もなかった。聞けば、製作にあたってはシナリオ検討委員会があり、そこで可決されたものしか作れない仕組みなのだ。いまは旧ソ連の映画人みずからが告発している検閲システムだ。当時はソ連の劇映画の水準の高さから見て、その記録映画にもそれ相応の期待を持っていただけに、「ドキュメンタリーには批判の力があり、映像の証言力は言葉でないだけに管理できない性質のものだ。それをシナリオの段階でつみとられるのは記録映画の自殺にひとしい」と机を叩かんばかりだった。日本の映画の仲間うちでやるのとかわりなかった。かれら撮影所関係者は怒るより呆れていた。やがて届いたモスクワからの回答は不許可だった。いらい危険人物視されるようになった。丸顔でも、目にものを言わせても、駄目なものは駄目だった。
国境近くの山容を大ロングで撮ることも許されなかった。ミサイル基地のエリアに接しているかららしかった。カメラ担ぎに汗を流し「肉体労働」しても「ニェット(否)」だ。
ブリアート自治共和国の首都、ウラン・ウデの出勤時はバスに鈴なりの人、その超ラッシュぶりにカメラを向けたが遮られた。森林コルホーズの山道でタイヤを岩の割れ目に落としたトラックに、女性が渾身の力をふりしぼって立ち向かっている様にうたれてカメラを取り出したが、それもはげしく制止された。「見苦しい」からだと言う。ともに、あるエネルギーを感じたからだが、言葉ではそれを表現しがたい。映画言語が通じないのだ。
考え方を変え、彼等が撮ってほしいものを優先して撮り、その周辺を掘りさげることにした。中途半端ならお仕着せの撮影になりかねないが、それを徹底して対象を腑わけすると、やがて即物的な質感が見えてくる。たとえば蒙古系ブリヤートの羊飼いコルホーズの場合、羊毛刈りの集団労働の壮観を撮りまくる。農具などは共有だが、彼等は一服するときでさえ羊毛のバリカンを手放さない。共有物のなかでバリカンだけは個人のものだ。ピカピカに磨かれている。その研ぎ方、光沢はすなわち個人の熟練を物語っていた。そのアップを撮ったとき、相手は嬉しそうにになり、より親身になるのだ。「見せたがるものから撮り、そのあとでつっこめ」が心得になった。
<そこで食えるか、死ねるか、愛せるか>となかばやけ気味につぶやく日々があった。われわれの撮影に対する違和感は薄らいだが、負点を撮るのではとの不信感が払拭しきれなかった。モスクワではロケ中止か続行かの岐路にあった(と後で聞かされた)。責任者はクビになり、モスクワから女性のチーフが来た。その彼女の判断で撮影続行となったものの、ロケは中断され、イルクーツクで足留めを食っていた。「事件」はその時起こった。
ある白夜、ウオッカの酔いをさますためにエニセイ河畔の公園を散策した。夏休みを楽しむ男女学生のアコーデオンと合唱の輪ができていた。私も『シベリア物語』の主題歌を披露し、皆の喝采を受けたりしていた。そのうちに両脇から仲良しのように腕が組まれた。しつこく誘うふたりの男についていくと、物陰に拉致され、いきなり殴られ、時計と財布に手をかけられた。木陰のアベックが声をあげたので、ふたりは時計をちぎって遁走した。だれの通報か、駆けつけた救急車で病院に運ばれ、頬傷や鼻血の手当てをうけて、ホテルに帰った。傷を心配するスタッフには、「転んだ」とだけ言っておいた。どこの国にも泥棒、追剥ぎはいると思えば、大した事ではなかった。
翌朝になって、通訳が「警察に行ってくれ。ただどこにいくかは他の人に内密に…」と言う。入れ代わりに、ホテルにKGBらしい男連れがきたようだ。
警察での処遇は丁重をきわめた。いかにもベテランらしい男が尋問をはじめた。「このシベリアで強盗に危害を受けた外国人は、あなたがはじめてです」と切りだしたのはよいが、「あなたはほかの日本人に何と言いましたか?」と聞く。「転んで怪我をしたと言った」というと急に態度がぎこちなくなった。ああ、信じられいてないなと思い、「あなたが日本に来ても、強盗に会わないという保証はない。だからといって、日本は強盗の国と言いますか?
私たちの一行には新聞記者がいます。もし記事にでもなったら申し訳ないから言わなかった」と答えた。KGB氏にはその話が通じなかった。いっとき中座してからは攻め方が変わった。「あなたは女子学生に悪さをして懲らしめられたのではないですか」とか「日本の新聞に書かれたら、かえってあなたの醜聞になる。だから言わなかったのですか?」と持って回った言い方でネチネチしだした。「どう探っても日本側スタッフは知らないらしい」。それが訳わからないらしく、カマを掛けるようなトンチンカンな質問が繰りかえされた。この男はどうしようにも愛せない。「どうなっているんだ、こいつは?」。
翌日も同じ質問を繰り返し、探りを入れるのをやめなかった。同宿のソ連側スタッフは息を凝らして、真相の解明を待っていた。もし日本のマスコミに知られたらと、首を竦めていた。三日経っても、日本側スタッフに何の変わりもなかった。毎日、怪我の治療に病院通っているようにふるまった。この事件であと何が起きても驚かなくなっていた。
その次の日、前触れなしに私はどこか湖畔の「知事の別荘」に招かれた。知事は「貴方を侮辱したことを許していただきたい。あなたはソ連を心から愛している日本人だと分かりました」といい、「この国の最高の時計です。あなたの時計は必ず犯人から取り返します。それまでこれで我慢してください」と、金時計をさしだした。信頼の回復ができたことは嬉しかった。にわかに気分が楽になり「ああ、ここが特権階級の別荘か」とあたりを見回した。澪れんばかりの美しい接待嬢が勧めるままに高級酒で酔いつぶされた。この一夜を境に、ソ連側の疑心暗鬼はうそのようになくなった。
ロケのその後も小さいトラブルはあったが、先輩の語録がすなおに生きた。この旅の前半の葛藤のうらには、やはり異文化を上まわる壁、冷戦構造・人為的分断から生まれた、おたがいの予断と独断があった。やはり古めかしいかも知れないが「そこで食えるか、死ねるか、愛せるか…」そんなつぶやきから、異文化との関係性がはじまるのではなかろうか。たとえその理解が「誤解」だらけであったとしても、である。
ちなみに、この映画『シベリア人の世界』は一九六八年度の毎日映画コンクールで受賞。その夏、劇場公開の予定であったが、チェコ侵入事件でまきおこったソ連非難の嵐により、延期となったまま、今日まで未公開である。
(一九九二・四・一五)