国鉄の労働者が負わされている安全についての苛酷な労働を描くしか方法がなかった『ある機関助士』『留学生チュアスイリン』を語る(講演録) 『くりっぷ』 N0.22 5月 杉並記録映画をみる会
土本(『ある機関助士』の解説)
この映画を作るきっかけになったのは、一九六二年五月に常磐線で起きた三河島大事故です。その時、百数十人亡くなりました。国鉄史上初めてといっていいくらいの大惨事でした。その原因が機関士の不注意ということで、機関士は逮捕され、業務上過失致死罪という刑事事件になりました。国鉄はそういうダーティなイメージを払拭する為に、「国鉄は、いかに将来に向けて安全を考えているか」を訴える映画を作ろうと考えたようです。
当時としては、新幹線が準備中でございまして、東海道線にはいろいろな安全装置を取り入れようとしていましたが、東北線や常磐線は安全面で一歩遅れていました。そういった状況の中で、私はこの仕事を引き受けるにあたって、国鉄に採用されるような最新鋭路線を題材にしたシナリオを書かなかったんです。あえて国鉄を挑発するかのように、事故のおきた路線を選び、安全対策が遅れている北の路線のシナリオを書きました。
明らかにしておきたいのは、この作品のシナリオには国鉄労働組合の人達が参加していることです。本来はゆるされないけれども、このシナリオを書くにあたって、友人を通して国鉄の労働組合の力で、僕は実際に機関助土席にのせてもらって勉強したんです。それは国労のカバーなしには出来なかった。当局も黙認したんでしょう。その結果、普通の人が書けないシナリオが書けたわけです。
新幹線などを取材したシナリオのなかに、一本だけ事故現場路線のシナリオがまじっていた。そのシナリオを手にしたら、すごく精密に書いてあってびっくりした。国鉄の人は機関車にノスタルジーがありますから、みんながこれを推薦したわけです。
それから映画作りが始まりました。国鉄当局を告発するという気持がありながら、それをPR映画ですから文章にもナレーションにも書けないわけですね。ですから、国鉄の労働者が負わされている安全についての苛酷な労働を描くしか方法がなかった。それがこの映画の特色になったと思うんです。ですから、ナレーションではふれていませんけれども、過密ダイヤの遂行か、運行の安全上での労働者の葛藤が、僕の中に意識されていた。
そういった意味で、チンドン屋とさげすまれたPR映画の中でドキュメンタリーの方法をもって少しでも描こうと思った作品です。映画という入れ物のなかにチグハグな中身をつっこんだフィルムとして、私には記憶されております。それをお含みの上ごらん下さい。
土本(『留学生チュアースイーリン』について)
『留学生チュアースイーリン』は、もともとは、テレビ番組として作られるはずだったんです。私はフリーで仕事をしていまして、『ノンフィクション劇場』に、このシナリオを書いたところ、OKが出たので、非常にやる気になっていたんです。
しかし、この主人公の留学生が文部省を相手に裁判をしているので、裁判に影響を与えるような番組はよくないと、クランクイン当日になって停止命令が出たわけです。そこで緊急に、仕事の空いている友人にカメラをまわしてもらい、あるだけのフィルムを友人から融通してもらって一応撮りはじめました。ですから、このフィルムはプロデューサーと監督が決っていただけで、その他の現場のスタッフは時々に仕事の空いている人にやっていただきました。
その中心になったのは瀬川順一さんという名カメラマンです。
そして、その瀬川順一さんは弟さんもカメラマンで、親戚にもカメラマンがいらっしゃいまして、僕らは「瀬川一家」というんですが。非常に優れた映画人一家が、この撮影を担当してくれました。そのかわりに録音がボロ機材で、お聞き苦しい点があると思いますがお許しください。
時代背景をお話しておきますと、いまでこそ、シンガポールとマレーシアは違う国ですが、英領マラヤ連邦といって一つの植民地でした。この事件の前年にイギリスから民族的独立をはたしました。その時、いままでいっしょだったシンガポールとマレーシアがわかれます。イギリスの利権を残して半身不随の経済状態のまま、半独立します(チュア君たちはそういう言葉を使いました)。
彼らにとって一番辛いことは、シンガポールだけ分離して独立することでした。それに反対するために、シンガポール出身とマレーシア出身の留学生がいっしょになって、マラヤ留学生として闘争を組みます。その時、委員長をつとめたチュア君が、文部省から国費留学生という恵まれた立場を奪われて大変困難な闘いをしておりました。
この運動を支えたのは現在の愛知県立大学教授の田中宏さんです。その後も留学生問題や外国人問題をずっと続けております。その当時、彼は本郷のアジア文化会館で職員をしておりました。そこは、伝統のある、暖かい気風をもつ法人団体です。職員として働きながら、チュア君の受難にたいして、理事であった穂積五一さん(この人はもと右翼です。しかしながら非常に立派な右翼です)の嘱望によって、専心、チュア君の問題解決にあたって、辛うじて強制送還を防ぎ、学生の身分を取り戻す闘いに勝利しました。
日本の学生がたくさん闘争に参加しますけれども、なんの組織もなくいわば自然発生的な運動です。千葉大学ではいまも語り草になっている大規模な闘争でした。
質疑応答
質問1
記録映画の作家になろうと思つたきっかけを教えて下さい。
土本
記録映画の作家になろうと思ったきっかけということを、うまくいえないんですけども。本当にやりたかったのは、映画ではなかったんです。なんでもよかったんですが、映画をやるには年をくいすぎていましたし、二十八歳ぐらいまで学生運動をやったり、裁判をもちましてまだ判決が出ていなかったので、その間は普通の就職は出来ないということもあって、日本中国友好協会で働いたりして、半失業者のような生活をしていました。
本当にやりたかったことは、本当のことを言えることだったらなんでもよかったんです。僕が育った時代は、中学校を卒業するまで完全な軍国主義で、「早く兵隊になってお国のために一生懸命たたかうんだ」と考えていました。戦前は天皇制の落とし子みたいな人間であり、戦後は敗戦前後の大きな変化を、身をもって知っている焼け跡派の人間でした。それに共通していたことは、僕にとっては戦前も戦後も本当のことを言えない時代だったということでした。戦前は天皇とか軍隊に盲従し盲信していました。戦後は、僕たちを教えた先生たちが、手のひらをかえしたように民主主義をとなえるのに不信感をもちました。
そういったなかで、僕は徐々に政治的な人間に変わっていきました。学生運動をしている間に占領軍からマークされまして、いまでもアメリカでのビジネスビザがとれないんです。そういう政治的人間としてリストアップされまして、僕にとっては戦後も本当のことが言えない時代だった。
戦後も本当のことが言えなかったものですから、昭和二十七年に仕事を求めるにあたって、本当のことを言ったり書いたりしたいというのが漠然たる希望で、それで飯が食えればよいと思っていましたが、就職の道はまったくありませんでした。 映画に入るにもトウが立ちすぎていて、どこも断わられました。
ただ岩波映画がプロデューサーの助手という資格で入れてくれました。羽仁進の仕事を手がかりにして記録映画に興味をもちました。彼のような仕事が出来るところには、必ず何かの可能性があるに違いないと思っていました。これが記録映画に入った道です。
岩波映画に入ったといっても一年間給料をもらっただけで、後はフリーでした。入社してから『ある機関助士』まで五、六年たっていますが、この映画の頃に岩波映画の中で作った集団に、故小川紳介や黒木和雄や東陽一がおりました。その研究会活動を通じて映画を学びました。この映画を作っている最中にもめにもめまして、私を守る形で黒木、小川、東などが非常によく助けてくれました。この映画がきっかけで勉強集団「青の会」が生まれた。これが僕の映画の学校だったと思います。そういった意味で、この映画で映画監督になりました。
この映画を作ったときには、国鉄が「すこしも安全な感じがしない困った映画だとうことで公開を見合わせたんです。ところが、映画監督だった牛原虚彦とか、羽仁進を先頭にして若手の批評家がこれを持ち上げてくれまして、その年のいろいろな賞を頂いたということで、この映画が陽の目をみるようになったという経緯があります。
質問2
蒸気機関車の運転の苛酷さが良く出ていたと思います。宣伝映画を目的としていながら、これだけ出来れば充分です。仕事に対する誇りも感じられましたが、告発ということには致っていないようなもどかしさを感じました。描き足らなかった本音を示して下さい。
土本
告発というのはオーバーなんですけれども。当時のPR映画というのは、企業の営業意志や存在意義を肯定的にほめ讃える主旨が貫ぬかれていなければ認められないわけです。しかし、それが露骨に出るのではなく、出来れば芸術的に出てほしい。あるいは、文化映画の装いをもって出てほしいという注文者のジレンマがあります。「自分たちの意志を映画にしてほしい」というのと「それだけでは、おもしろくなくて見ないかもしれないので、ある程度は文化性や芸術性を期待したい。」という背中あわせの要求を注文者は持っているものなんです。
岩波映画は大資本の大映画予算を奪いまして、『佐久間ダム』『鉄鋼』の映画を作ってきました。しかしながら、そういった映画を含めて労働者は描けないんですね。即物的に鉄を描いたり、工事記録に現われた人間の知恵とか労働一般は描けても、労働者の世界はタブーだったんですね。
そんな中で、僕は国鉄のコンクールがあった時に、「当選しなくよい、こんなシナリオもあることを国鉄に見せたい」ぐらいに考えてシナリオを書きました。そんなわけでぜんぜん現実性を考えてなかったので、かえって自由にシナリオが書けたのだと思います。
これはエピソードなんてすが、岩波が僕にシナリオを書かせながら 「土本は労働組合の連中とゴソゴソやっているらしいけれど、コンクールに落ちるに決っている」と不安がって、もう一人シナリオライターを立てていたんです。そして、国鉄が推薦する「東京―沼津間の自動安全装置」を主題にしたシナリオを書くようにしていたんです。
そのシナリオと「人間の注意力によってしか安全が保たれていない労働現場」を主題にした僕のシナリオと二本が出されたんです。ところが、応募した十七社が新しい路線のシナリオばかりだったので、僕のシナリオが目だって、なんとはなしに当選してしまった。
それから、こちらは大いばりで作ったわけですが、自分の節制がありまして、三河島大事故批判はしないと決めていました。
しかし、複線でもない同じ路線、同じホームを各駅停車の国電が通り、時間に追われた機関車が疾走する。その運行を安全にわりふるのは、「なんとか注意!なんとか注意!」と呼称しながら、ガチャンと切り替える転撤手でしかない。そういう苛酷な肉体労働の現場を見せつくすことによって、批判になるはずだという確信がありました。
革マルの松崎明が田畑機関区のキャップで、僕を機関車に乗務させる為の采配をふるってくれました。二日間、実際に釜たきを体験してメモをとりました。そこでいろいろなことがわかったんです。
この映画の場合は全カットのコンテがあるんです。これを撮ったら次はこれを撮ると決めるわけです。国鉄は事故が起きてはいけないので、僕たちに細心な注意を要望しました。ところが、一日で撮ってしまうわけではないので、夕方から夜にかけて次々に撮影地点を機関車が定時に動くように組むには、日によって日没時間が違うのでむずかしいわけです。それで全線に徹底して、芝居用の機関車を走らせました。ですから、なにげないワンカットもコンテを描いて撮りました。即興でもずいぶん撮りましたけれども、この映画の場合は完璧なコンテ主義で撮っています。
あの当時、フィルムの感度が低いですから、大変な照明をおかなければいけない。それも、他の機関車も通っている時間に決められた以外の照明をつけることは、事故のもとになりますから、すごく大変だったわけです。ですから、安全性を考えて、国鉄現場をことごとく勉強してコンテを描いてから作るという、非常に不自由なやりかたで作りました。
そこで本音を言わないかわりにどれだけ画で語るか。例えば、今は前方が一八〇度見えますから、信号をみあやまることが少ないんですが、機関車には釜があって、機関士には右がみえないんです。機関助士が右の信号を読まなければいけないわけです。そういった共同動作が、あのうるさい中でなければいけない。しかも、あらゆる注意を前方に払っても、目にほこりが入って見えなくなることもある。そういうむちゃくちゃな、しかし懐かしい労働条件のもとで働いていた。そういったものを徹底的に描けば自然と「この程度の注意の仕方で動かしているのか」ということを見た人が感じてくれるのではないか。また、「定時を守る」ということが、労働者にどれだけ苛酷な労働をしいているかが、わかってもらえるのではないか。
三河島事故の裁判官にも、「構造的な欠陥が事故を生んだのであって、機関士個人の責任にするのはけしからん」とわかってもらえはしないかと思って作りました。
余談になりますけれども、のちに助士廃止問題が出た時に、労働者が国鉄当局からこの映画を借りて見せました。「当局自身が『ある機関助士』という助士が必要だという映画を作ったではないか」と抗議したそうです。本音を直接にいうのではなく、そういった方法を使って間接的に本音をいった作品です。
【質問三】
私はビデオをやっていますが、監督とカメラとの関係がわかりません。画面はカメラマンが撮るんですよね。とすると、監督はなにをするんですか。特に『ある機関助士』はすごい迫力だったので、よけい疑問がわきました。
土本
(笑いながら)この質問には、時間をとってお金を頂かないとしゃべれませんけれども。監督とカメラマンについてという質問は、非常に時間がかかるし、何時間でもしゃべりたい問題です。その映画をどういうふうに予見し、どういうふうに現場で修正し、どういうふうに発見して、構成をたえず建て直していくかというのは監督としての仕事です。
「カメラマンは画を撮る、録音は音を採る、その時、監督は何をしていたの?」とよく聞かれるんですけれども。撮影の現場になったら監督はカメラのことも録音のことも心配していません。撮り終わった時にカメラマンと録音マンの顔を見れば、うまくいったかどうかわかります。それには、撮影までにスタッフの意志統一がほぼなされていなければいけないということです。
どんな形でも撮れたものを位置づけていくのは、編集段階での監督の仕事です。そういった意味で、カメラマンが自由に撮れる条件をつくったり、あるいは撮るべきものがとれなかったとしても、その理由に対して理解して、新しい方法を見つけていく責任が監督にはあると思います。ですから、カメラが回っている時は一切くち出しは出来ないものです。カメラマンが感動して撮っているかどうか、どこに心をひかれて撮っているかを読み取るのが監督の知恵だと思います。
例えば「ナニナニがある。ナニナニ撮れ」と指示した時に、カメラマンが一応それを撮るとしても、その中の何をセンターに見すえて撮るかは必ずしも指定していませんから、そのフィルムに写ったものを見て、そのカメラマンの感性を理解していくというか、フィルムのフィーリングを理解していく仕事が、構成者、演出者としての監督の立場だと思います。ですから、キャメラマンは思うぞんぶん撮って下さい。
ただし、カメラマンは編集がへたです。自分が撮ったものだから愛着があってフィルムを切れないんです。自分の思い込みで画をみてしまう。例えば、カメラマンが「これを撮ったぞ」と思っても、大きな画面に小さく写っているだけという場合もあります。編集者から見ると、とてもじゃないけど大きく撮れていないわけです。しかし、撮った人はこんなに大きく感じているんですね。ですから、カメラマンは不幸にして編集には一番不向きなパートです。冷酷な編集者と組まれることをお薦めいたします。
【質問四】
チュア・スイ・リンさんは、現在はどんな仕事をなさっているか。当時、彼はこの映画にどういった感想をお持ちになったでしょうか。
土本
インターナショナルを中国語で歌っていたシーンに、髪の長いヘン・フ・チョンというマラヤ留学生か写っていましたが、彼がいま来日していて、上映会に来たいと言っていたんですが、今日は来られなかったようです。
この映画に関わった人達は同窓生のように今も情報を交換しています。チュア君はいまシンガポールで造船の仕事をしています。造船といいましても、海をボーリングして石油とかガスとか採掘するやぐらをつくる仕事をやっています。ベテランのエンジニアとして働いています。
彼が帰国する時にこの映画をシンガポールに持っていけるようにしようと考えましたが、その当時、持っていくのはまずかったので、持っていきませんでした。ナレーションの「私」というのは田中宏さんのことで、彼の人格をかりて書きました。チュア君は田中さんを恩人として、日本に対して非常に良い思い出を持って、現在働いておられます。
映画に対する彼自身の感想はほとんどありません。彼自身が映画にどう写ったかについて一切の感想はありませんでした。それよりも、この映画見た人の感想を聞いて歩いていました。そうだろうと思うんです。見た人に対しては、理解してくれたかどうかを含めて、非常に詳しく感想を聞いていました。自分の映画と思ってくれたのだと思います。
最後のタイトルに、「チュア君を守る会」の製作としましたが、そんな会があったわけではなかったんです。(笑いながら)なにかなくては困るだろうと、そういう会名を作りました。なんとなしに出来てしまったフィルムです。最近も留学生の集会などで上映の機会があるので、フィルムを新しく焼きましたが、いまだにそういう形で見てもらえるのは、ありがたいことだと思っています。
この映画の頃と今と、日本の状況がどう変ったかは、みなさんのほうが勉強して良く知っておられると思いますが。人管の法律を見ていますと、この時代も現在も留学生に対する態度は基本的に変っていない、ひどいものだと思います。特に、今回イランのビザを切ったというのは、たいへんに不届きな仕打ちだと思います。
田中さんが『在日外国人』(岩波新書)を出しておられます。彼が生涯をかけて留学生問題に取り組んでいく機縁にこの映画がなったという点で、大きい意味があったと思います。彼が大学の先生になるとは想像できませんでした。彼は留学生の世話人をしていたんです。
その彼が実践の中で勉強されて、愛知県立大学の教授になって、いま日本で留学生問題のナンバーワンです。
【質問五(会場から)】
『ある機関助士』には、全カットに画コンテがあったと伺って感銘を受けました。三河島大事故をさけたというお話でしたが、事故をおこした機関車のシーンでふれていることと、機関士が石鹸で体を洗っているシーンの壁に三河島大事故のポスターがはってあることに気づきました、これは意図したものでしょうか。
土本
そうです。
【質問五の続き】
おそれいりました。取手駅三分遅れを取り戻した中島機関士が、その直後に煙草を吸うシーンがありますが、あれは冷静に見ると問題のあるシーンだと思いますが、意図的なものだったのでしようか。
土本
あれはね・・・。橋にさしかかれば必ずあの人は煙草を吸ったんですよ、踏切がないから。僕は吸うなと思ったし、たぶんスナップだと思います。こちらが頼んだとしたら、良いマッチを渡していたと思うんです。彼のマッチが湿っていて、なかなか火がつかなかったような記憶があります。
質問6
『ある機関助士』はコンテを作って構成したということですが、いわゆる記録映画における「フィクション」と「記録」というのはどういうふうにお考えですか。
土本
(笑いながら)僕はその時によって違うことを言って、毎回いい加減なことを言っているような気がするんですが。「記録映画はやらせをやってはいけない」と言ってみたり、全部やらせみたいな記録映画を作ったり、どうも確信はないんですけれども。
先を予見するということも非常に創作的なことだし、シナリオともいえませんが、ノートに書き込んでいくというのは非常に楽しいことなんです、こういうふうに見えやしないかということで。ですから、シナリオ化との作業は実質的にはするんですが、その程度の思索では現実によって跳ねかえされて、シナリオとは違う状態になってしまう。現場というのはそういうことが非常に多いものですから、状況にすぐ対応できるように、スタッフは心構えをしていなければならない。写っているささいなことの中に、大きいことを予感する大切なものが含まれていることも多いいですから。
そういったことのために、ドキュメンタリーの精神や考え方というのは基本だと思いますけれども、その点では、まったくのフィクションか、そういった設定のないスナップを主眼としたものだけが、ドキュメンタリーだとは思いません。本質がもっとも現われやすい状況について、まるごとフィクションを組むこともあると思うんです。
例えば、『留学生チュアースイーリン』の時には、僕が学長にボンボン言っている声が入っていますが、どんどんしゃべっていくわけです。学生に「帰るな」と言ったり、「これから泊ろう」と言ったり、あの映画ではずいぶん飛びまわったんです。
ですから、逆に言うと、少しばかりの展望が開けてチュア君が胴上げされるシーンがありますが、どこかでそういうシーンが欲しいと思うけれども、あの時期ではないんですね。もっと大きな国費留学生の身分そのものはネグられていますからね。私費では、戻れてもだめなわけです、そういった場面にぶつかったとき、カメラとしたらどうしても万万歳に撮るわかにはいかないですね。どの盛り上がりの部分をはかえって抑制して編集しています。
それから『ある機関助士』についての質問ですが、三河島大事故については、直接にふれるというところまではどうしても考えられずに、壊れた機関車や事故のポスタ―で出しました。これはエピソードですけど、作った後になってから国鉄の人が「三河島駅を通過する時に、機関士と機関助士が哀悼の敬礼をして通るシーンを入れてくれないか」というんです。触れないことを前提にしながら、映画がかなり出来てみると、国鉄の人は三河島大事故について、どうしても感じてしまうものがあるわけです。その事故の年に作っているし、三河島の駅は画面に出てきますしね。その提案は聞き流しました。
「機関士の不注意」として告訴されている時期でしたから、シリアスな問題ですよね。国鉄は機関士と機関助士の怠慢に責任を押しつければ、裁判の目的の半分ぐらいは守れるわけです。僕としてはそんなことではないという気持はありますが、証明は実際の路線の上でしか出来ないわけで、映画として証明できることは限られていますから。そこのところを出来るだけ即物的に描いたら、いろいろな見方が出来るのではないかと思ったんです。その辺が、体制から金が出ている制約された映画に対して監督が抵抗できるぎりぎりのとこですね。しかしそういう制約が、作家を思いもかけぬ鍛え方をすることがあって、ある意味ではよいことだ思うんです。そういったものを引き受けて、その中で自分の方法論をみがくということはあっていいのではないか。ただし、状況が許されればそういうものなしで自由な映画を作りたいと思います。そんなふうにPR映画での作家活動を考えていますけれども。
「質問七」
機関室はせまいですが、あそこに監督とカメラマンと二人入って撮るんでしょうか。
土本
僕と照明は炭車の中に仕掛けをして入っているわけです。機関室にはカメラマンだけです。みんな命綱をつけています。
【質問七(つづき)】
撮っている最中は監督として指示を与えないわけですか。
土本
機関車の音がうるさくて声はぜんぜん聞えませんし、そういうことは一切しません。決めた以上はじっと見ています。撮り終わった時にカメラマンがまずい顔をしていたらもう一度撮ろうというわけです。
【質問七(つづき)】
そこなんです。あの映画では撮影用の機関車があったわけですから、撮り直しは出来ますね。
土本
そうです。
【質問七(つづき)
ドキュメンタリーは一期一会というか一瞬だから、こっちを撮っているとあっちにもっといいことがあっても、撮り損ねることがありますね。私のような素人がビデオで撮っていて、いつも思うのはそこなんです。そういうところは土本さんのようなプロの方は、なん台ものカメラを使ってそれを補うんでしょうか。
土本
いいえ。カメラは原則的には一台ですけれども、カメラのファインダーは一つの目なんですよ。覗いているときは一つの眼なんです。もう片方の眼は別なものをみながららファインダーも覗ける人はかなりベテランになってからで、たいていのカメラマンは一つの目なんです。しかし、一つの目だけで現場の掌握をするというのは、カメラマンにとっては不安なことなんです。なにか脇でよいことが起きてはいないだろうかと思って。だからその為に監督やスタッフがいるんです。二人より三人が良い。三人いれば討論が出来ますでしょう。やっぱり、目は二つより四つのほうがいいし、六つのほうがいいと思います。あまり多すぎると困りますけれども。
それから、撮り損なうことなんていうのは、あるのが普通です。ぜんぜん怖いことではないです。だから次にまた何を撮ろうかということを考えればいいので。決定的瞬間は撮れないのものだという方法は生まれてこない。スチール写真にはアンリーカルチエーブレッソンのように、「決定的瞬間」ということをやる人がいますけれども。映画があれだけのスタッフで機能する時に、そんなにあるピークからカメラを回すことは出来ないと思います。
質問8
『ある機関助士』はサスペンス映画を見るような緊張感があって、大変おもしろかったです。音楽が見るものを不安に落としいれるような効果があったと思うんですが、監督は音楽にどのような指示をされたのでしょう
土本
三木稔さんは大変すぐれた音楽家でしたから、ほとんどおまかせですけど、音楽は時に中身をうたいあげすぎることがあるんですよね。『留学生チュアースイーリン』も太鼓の音が高すぎていやなんですが。そういうことを三木さんに何度も話して作ってもらった音楽なんです。しかし、機関車が合図を待って去っていくラストシーンに音楽をつけようと思ったんですが、うまくいかなくて、音楽を変えてもらってつけなおしたんですが、最後まで入らなかったんです。ラストシーンに音楽がつけられなかったんです。つまり音楽にはある種の結論性というのがあるんです。全体の映画の印象をまとめていく、すごい感性的な作業力があるんです。中身をうたいあげないとしても、なにかの抽象的な力があるんですね。それを最後にあてると、この映画は全部違ってしまうんです。だからラストに音楽は使いませんでした。それがよかったかどうかはわかりませんけれども。そんなふうに考えています。僕は音楽は使わないことの方が多いです。