日本の記録映画作家にとって、たいへんな分かれ道になったフィルム 亀井文夫監督作品『上海一支那事変後方記録』を語る(講演録) 『くりっぷ』 N0.24 9月 杉並記録映画をみる会 <1992年(平4)>
 日本の記録映画作家にとって、たいへんな分かれ道になったフィルム 亀井文夫監督作品『上海一支那事変後方記録』を語る(講演録) 『くりっぷ』 N0.24 9月 杉並記録映画をみる会

 土本
 
 こんにちは。時間があまりありません、みなさんから感想とか質問をできるだけお受けして喋りたいと思います。

 いま二つの質問がきておりますが、この二つに共通しておりますことは、「国策映画」ということです。
 「『国策映画』という切り口で作られた映画といわれたが、やはり中身も国策映画ではないのか」という単純な質問と、「国策映画でありながら戦意高揚な効果をほとんど殺した、戦争に非常に批判的な映画ではないか」という質問です。

 いま頂いた質問は「これは兵共(つわものども)がゆめの跡」ならぬ、ゆめの途中の映画なんです。キャメラは上海の街の中心部をとらえ、中華ミュージックが流れ、観光ガイドならぬナレーターによって街の様子がひとしきり説明されています。ここでわれれれは観客ならぬ観光客になったのです。
 なぜなら本作品はわれわれをのどかな気分にさせてくれるからです。その根底には戦争を肯定も否定もしない宙ぶらりんな態度が作家にあるからなんです」というものです。
   
 この質問は「監督自身が現地に行かなかったのはどういう事情からですか。監督がカメラマンにこういう場面を撮ってくるようにと指示したそうですが、具体的にはどのような指示だったのでしょうか」というものです。

 「戦時下で検閲をうけた作品にしては、戦争の残酷さを改めて思わせる場面が多かった。とはいえ戦争を是としているような場面もかなりあった。当時の日本の思想や中国の状況を知ることには充分役立ったとは思う」これは若い方の感想です。
  
 「亀井さんについてあまり詳しく知らない。日本のドキュメンタリー作家にどういう影響を与えたのかにもふれてほしい。」という質問がございます。

 この映画が戦後発掘された時に、いち早く取り上げられた『杉並シネクラブ』の活動家の城所さんがいらっしゃっていますので、そのころのお話もして頂きたいと思います。
 『上海』の解説者として私か適当だとは思いません。亀井さんの助監督をなさった方が三鷹に住んでおられますし、亀井さんを助監督の時代から見ていた谷川義雄さんという「亀井学」を極められた方もおられますので、そういった意味では私か適当だとは思っておりません。
 
 私は日本のドキュメンタリーを志す者として、片時も亀井さんをわすれたことがなかったし、そういう育ちかたをしているものですから。しかも、あまり近く接しないで亀井さんのフィルムと瀬川順一さん(一九三九年製作『戦ふ兵隊』で三木茂さんの撮影助手をなさり、一九五二年製作『母なれば女なれば』でも撮影で亀井さんといっしょに仕事をされた、日本で最長老のドキュメンタリーのカメラマンです。)から聞きましたエピソードから、亀井さんのドキュメンタリーに対する考え方をずっとたぐっておりました。
 また、亀井さんが時代に対してどのように映画作家として立ち向かおうとされたか、あるいは時代をどのように見ておられたかということについて興味をもっておりましたものですから、そういった点で多少話をさせて頂きたいと思っております。

 「上海」を撮影していたころ(一九三七年)、私は八才でした。日本が上海や南京を占領すれば、日の丸ちょうちんを持って戦勝の祝いをやった世代なんです。私が住んでいました麹町は、皇居に近くて天皇制教育のもっとも色濃いところでしたので、その点で私の意見にはそういった形の戦争体験が重ならざるをえないことを割り引きして聞いて頂きたいと思います。

 本題に入る前に、私自身が『上海』や『戦ふ兵隊』を日本で外国人に見せた体験で申しますと、日本で受け取られているような「影や彫りの深い戦争に抵抗したフィルム」だと、外国人には受け取ってもらえません。特に中国の人に見てもらった場合はほとんど受け取ってもらえません。これをわれわれがキャッチボールではないけれども、改めて外国人に投げ出してみて、外国人のフィルムに対するリアクションを、われわれがどういうふうに考えなければいけないかというところに、時代の問題があり創作の問題があるように思います。
 
 『上海』については世代によって受け取り方が違うと思います。私のように子供の時から天皇制そのものがまきちらした映画、文学、新聞の中で軍国青年として育ち、戦後は占領軍の下で腹を空かせながら戦前の時代を悔しくとらえなおした世代から見ると、このフィルムからは非常に胸をさされるものがあります。しかし、戦争を知らない世代に、このフィルムがどう受け取られるかということについて、ある意味で同じような怖さを持つわけです。もし『上海』が若い人たちから「国策映画だ」と切り捨てられるならば、この映画にある種の感動を持った私の感性自身がすっぱりと切られて無視させるのではないかという怖さをふくめて若い人の反応がきになるところです。

 正直を申しますと映画を作る人間として、いまのフィルムの状態は非常に残念なんです。ビデオなどをやっている方はわかると思いますけれども、コピーを繰り返すと画面がぼやけますが、あれとまったく同じ状態なんです。
 『上海』は映像の世界では今も伝説的な評価を受けております三木茂さんが、彼の映画技術の粋をかたむけて撮った映像です。しかし、いまのフィルムの状態は、白い空をバックに人物なり建物を撮っているところなどは、ほとんど黒いシルエットになってしまって、なにが写っているかほとんど見えません。そこにはちゃんと見えるものを写していたに違いないんですが、大雑把な記号としてしか今は残っていません。そういった意味では鑑賞としてはたいへんにむずかしいところがある。
 つまり、もし『上海』のネガが発見されて新しいフィルムを焼くことが出来たら、映画の見方がすごく違うと思うんですね。そういった点で日本の映像の保存の仕方が悔やまれてなりません。
 特にこの映画のように、映像から感じる感性を作者が信頼するゆえに、映像とナレーションとの「ちぐはぐさ」をあえて意識的に使って、戦争の時代に国策映画の姿をかりて、「この映像なら観客に読み取ってもらえるだろう」という思いでつないだ痕跡が、映像が鮮明でないためにかなり薄まってしまっています。
 
 逆にいうと画が薄まるから、ナレーションが強くなって、亀井さんが意図した「ナレーションはこの画に負けるに違いない」ということが、いまの画の状態では音のほうが画に勝ってしまっています。言葉にはクリアーさがありますから。ですからそういった意味では、みなさんが本当にこの映画を解読されたかどうか、フィルムの状態からいって非常に不安です。

 この映画の中には同時録音という方法が使われています。いまのテレビの時代ではめずらしい事ではないんですが、『上海』の中で中国人の捕虜(ほりょ)に「食事も十分足りているか」と聞いていますね。同時録音は戦争中のニュース映画にはほとんど利用されていなかったんです。しかし、いち早く、記録映画では先進的な技法を使っているんですね。
 同時録音を使うように仕向けられたわけをお話しますと、軍の保護によって「政府の発表」、「軍の発表」、「現地の発表」をそのまま画と音で重々しく発表するというようなことが、ニュースの世界に持ち込まれました。しかし、日本国内での陸軍大将の言葉とかが同時録音で出ることはあったんですが、中国の前線まで持っていっての同時録音はほとんど試みられたことはなかったんです。
 
 録音機材はカメラー式より重かったと聞いていますが、いまのような携帯に便利なテープレコーダーはありませんから、ほとんど音は考えないでノートだけを取ってきて、その画に音楽をかけて「この人たちはこう言っています」というナレーションをつける映画が多いなかで、『上海』では同時録音が使われています。
 ここに昭和十三年二月一日に東宝が作ったシナリオがあります。この当時はまだ検閲がありません内部だけのシナリオだと思います。これを読んでいて、同時録音がどういうふうにつかわれたかに非常に興味をもったんです。二種類の使われかたをしていまして、一つは軍の自慢話です。「戦いをこうやってきた」「こういうふうに爆撃してきた」「敵の汽車は空から見ると小さいので弾が当たらない」というリアリティがあるところで使っています。
 もう一つは、祖界のフランス人宣教師がインタビューに「日本軍が子供たちを救ってくれたことに感謝します」と答えていますが、宣撫(せんぶ)的な意味で使われています。
 しかし、証言力を増すために使っているところがある反面、同時録音であったために極めてユーモラスになってしまったところがありまして、心ある人が見たら吹き出してしまうような使い方がされています。

 日本人将校が中国人捕虜に質問している場面がありますが、通訳がそばにいて通訳するわけですね。その時の捕虜の答えはひと言だけございます」と通訳しているんですね。(笑い)
 「体のぐあいはどこか悪い所はないか」というと「はあ」とだけ答えているのに、「ええ、体は別に障る所はございません」と通訳しているんです。(笑い)
 「食事も十分足りているか」というと「はあ」とだけ答えているのに「別に不自由感じとりません」と通訳している。中国語の答えが短いのに、こんなに長い言葉を言っているはずがない。明らかに誰がみても嘘だとわかります。これは明らかに嘘というか、こういうシチュエーションではこうしか答えられない。こういうような質問をして、日本の中国人捕虜の扱いについて満足しているような返答の言葉がほしい。録音の技術を利用してそうした生の言葉がほしい。

 つまり戦争意図や日本軍の態度をなんとか言葉にしたいと軍部は思う。言葉の方がナレーションよりもはるかに印象が強いということを軍部もおぼろげながら知り、その方法を期待するところがある。そのことを亀井さんも知って逆手にとっていると思います。
 そういった意味で、シンクロ(同時録音)という技法を使って、嘘が作られた状況でなければ絶対に録音出来ない言葉、つまり自然の本音の言葉ではなくすべてこうした状況の中で、いわば仕立てられ、加害者と被害者の間で当然出てくるような言葉を、亀井さんは「この嘘をどうやってみせてやろうか」と、あえてシーンの中で使っています。
 
 亀井さんがたびたび回顧談の中で「自分は国策に従った。しかし、一見して国策に従った言葉を使っているけれども、それがどういう嘘であるかがわかってもらえるに違いない。『日本軍は勇猛果敢に戦って、悪あがきする敵を叩き潰した』というその当時のニュース に対して徹底的に戦い抜いた中国の兵隊を映画全体を通してイメージして、戦跡をこまかく分析してつないだ」「あの画をみてもらえば、中国人に対して彼らと変わらない思いを持ってこのフィルムを作ったことがわかってくれるに違いない」というような意味のことばを語っておられます。そういったシーンがいま解読するのにかなり困難な劣化したフィルムの状態になっているし、それが分るにはあまりにも時代の違いと、映像の保存技術のひどさがあると思います。

 私か亀井さんと直接お会いしたのは、一九八〇年のなかば『トリ・ムシ・サカナの子守り歌-生物みなトモダチーパート2』をお作りになる時でした。亀井さんから「なにか映画人として協力してくれ」ということで、「私に出来る協力はこういうことが出来ます」とお話したのが機縁です。その後、岩波映画講座で亀井さんと対談をし、亀井さんについての多少のことを書かせて頂くので、亀井さんとの関係を待った程度でございますが。
 (「亀井文夫・『上海』から『戦ふ兵隊』まで」「ドキュメンタリーの精神(亀井・上本対談)」講座日本映画 第五巻 岩波書店)
 
 あの戦争のなかで亀井さんがどのような立場におられたかということと、私とつなげて考えると、記録映画作家があの時代にどのような立場におかれたのかという二つのことがあるわけですね。大きくいいますと、亀井さんにして初めて日本にドキュメンタリー映画が実現されたのであって、それ以前はポールーローサの本などを通じて知りうるのみで、いわば遠い幻の理論であったにすぎません。
 記録映画をやる人間が亀井さん以前にどういう形で存在したかといいますと、そもそものスタートはカメラマン自身が映画作家だったと思うんです。「実写映画」というようなフィルムの時代にはそうだったと思うんです。
 
 劇映画が生まれてから、各映画会社が勢ぞろいした戦争前夜には、記録映画作家はほそぼそと教育映画の世界で登場したのと、軍需的な産業映画、いわゆる時局映画(時局を解析して日本の方向を宣伝するような映画)に使われていました。明らかに二流であり、劇映画のそえ物としての文化映画の製作者ということで非常に軽視されていたし、権力にとって道具に使いやすい弱者の映画人としてみられていたと思うんです。
 それが戦争と同時に変化を遂げていくんですね。亀井さんがその当時二十五、六歳ですけれども、自分に対してどういう記録映画の未来がくるのかと探っている時に、(ソビエトヘ留学して、非常に新しい、革命後のジガべルトフとかエイゼンシュタインとか、そういった人達の映画表現を勉強してきていたという彼の経歴に対する期待があったんでしょうけれども)、一挙に日本で最初の長編の構成編集者にするんですね。いまでいえば別に長いという感じもないと思うんですけれども、一時間四十分の『怒涛を蹴って―軍艦足柄渡欧日誌』の構成をさせるんです。それ以前は記録映画は劇映画のそえ物ですから、三十分以内でないとローテーションを組めないわけです。
 
 劇映画は一時間三十分くらいですから、それに対して三十分ぐらいの記録映画をそえて、二時間前後でローテーションを組むわけです。ですから劇映画と同じ扱いの一本立ての記録映画が出来たわけ
 日本の海軍力や戦争に対する考え方を準備するといいますか、そういった意図のもとに海軍や陸軍が多額の金とバックアップをして記録映画を撮らせるわけです。しかも、戦争や国力の躍進に対する熱烈な国民の支援があった。映画を見る人がたくさんいたわけです。
 それによって、記録映画が国家的なスケールで重用されてくる時代になりました。
  
 私か戦後ずっと見ていますと、国が民衆を動員する時は必ず記録 映画が使われていますね。
 劇映画は後からついてきて記録映画を追い越しますけれども、またなにかあると実録で巨大な記録映画を撮っていく。それはヒットラーの場合の『民族の祭典』がそうですし、日本の場合に戦争中のいろいろな記録映画がそうですし、戦後はオリンピックや万博展示までつながる流れだと思うんです。いまのテレビ界の話にも」広がるかと思いますけれども、それは別としまして、戦争中にドキュメンタリー映画が国策にぴったり合った時代があった。その時に亀井さんがエースとして引き込まれたということがあります。
 国策のなかで記録映画がどのように大きな力を持つかということを、亀井さんを含めて記録映画作家が知っていたかというと、僕はほとんど自覚はなかったと思います。この『上海』からだと思います。『上海』はその意味で日本の記録映画作家にとって、たいへんな分かれ道になったフィルムだと思います。

 この映画がどういうふうに出来たかといいますと、満州事変からいろんな戦闘が大陸侵略のために行なわれてくるわけですけれども、それがだんだん本格的な中日戦争を準備するにあたって、軍隊の中にヒーローが生まれてくるんですね。「爆弾三勇士」とか、ヒーローが死んだ時の美談とか、その奥さんががんばった物語とか「上海」でもでてきますが「参謀本部の花」といわれた美しい娘さんとか、そういう美談を聞きなれた人達にたいして「映画でそれらを撮ったらおもしろいのではないか」ということが話に出たのが端緒だと聞いております。

 この段階では軍は注文とか検閲をほとんどしていませんね。しかし、演出家をカメラマンといっしょに現場に出すことをしていないんです。これが記録映画としては非常に大きい問題なんです。それまでの亀井さんの状態もそういう形でした。
 東宝には当時としては比較的に進歩的な人々が入っていたといわれます。この日本のドキュメンタリーの発祥の地とも言える東宝文化映画部でも編集者即構成者で、現場にいくのはカメラマンだけで、音が必要ならば録音部が行くというように、監督の指示にしたがって技術スタッフが現場に行っていました。そして、それをいかに構成編集するかが監督に課せられていた。
 それはどういうことかといいますと、全体に、作家が自分が作りたいものを作るという習慣がまったくなかったから、そういうことが出来るんですね。つまり、構成者はPR映画や国策映画について、陸軍省や海軍省のおおまかな注文を知り抜いていますから、そのシナリオをもってカメラマンが現場に行きそうして撮ってきたものを編集するという流れがあったから、まかり間違っても反戦映画などを作るわけはない。
 監督が現場で演出するというならば、権力側は管理がしにくいけれども、カメラマンが撮ってきたマテリアルをそこで編集するだけならばどこでも検閲が出来るしかんしができるし管理が出来るし影響を与えることが出来るから、そういった形で進めたのだと思います。

 この『上海』も、亀井さんはいろんな考え方と思いがあったと思いますけれども、「新聞で話題になっているものを抜かさず撮って来い」というようなメモを渡してフィルムの到着を待っていた。届いたフィルムは三木茂さんが撮ったこういうマテリアルであった。
 フィルムを亀井さんといっしょに見た人たちはがっくりしてしまって「これではどうにもならんのではないか」といっている時に、亀井さんは「これでいけます」といって太鼓判を押して、編集をして作ったというエピソードがあります。

 これはたいへんな出来事だったと思います。それまでは現場で撮ってきたものは、そうしか繋げないように撮ってきたものが多かったんです。どう繋いだらいいのか分らないというものはそうたくさんなかったんですね。わかりよい、文法に従った、テーマがはっきり見える解り切った画を撮ってきたと思うんです。
 ところが、三木さんの撮ってきたのは、茫然としたカメラは茫然としたカメラ、気になるものは気になるもの、自分もいい気分になってしまったようなものはそのままに、という風にまったくありのままさらけだしたような画を撮ってきた。そういった意味では、統一的な角度で切りきざむことが出来ない、正直な多面的な感受性に満ちた画を撮ってきたわけです。
 亀井さんがなにかに書いていますけれども「どんなカットでもいいということではない。つまりキャラクターのあるカットがほしい。
三木さんの『上海』の画にはみんなキャラクターがあった。ひとつひとつのカットを撮った時には、そのカットに対する彼の感応があった。だから繋げるというふうにいえたんだ」というわけですね。
 だから何時間ものラッシュフィルムを見た時に、誰もがどういうふうに繋いでいいかわからない。「少しも劇的な激動はないじゃないか。平べったいインタビューしかないし、どうなるかわからない」と思ったと思うんですね。
 しかし、亀井さんの角度からみれば、現場でカメラをシュートしたカメラマンの感性が画の中に全部見えていた。

 戦場のリアリティというか、勇ましい兵士ではなく、農村出身で修身教科書を自分たちと同じように勉強した若者たちが、わけもわからず中国の人を相手にしてやっている。そして、弱い弱いと思っていた中国の兵隊が、実に頑強に一地点を三ヶ月も守りぬいていた。
 しかも、智恵をつくして、農村では農村の陣地を構築し、都市では壁ひとつを境いにして膠着状態で激しい撃ち合いをやっている。そのことを戦いの後で、瓦篠を見つめることによってわかっていった。
そのわかっていったことを画の美醜を問わず撮っていた。
 中国軍との戦闘後に残されていたパンの包み紙の英文から、それが隣接するイギリス祖界からの中国兵への差し入れだったことを読み取るという、今までの映像ではなかったそういったものを、亀井さんは編集した。

 亀井さんはある本の中で「編集こそドキュメンタリーだ」というんですね。そこのところが僕は違うんですね。僕は「編集だけがドキュメンタリーではない」と思っているものですから。そこことで後になっていろんな論争が生まれます。時間があれば詳しく紹介するといいんですが。当時、二十から三十歳くらいのドキュメンタリストのあいだにホットな論争がおきます。おそらく日本においてドキュメンタリーの論争としていくつかあるとすれば、もっとも熱烈な論争がおきます。
 
 カメラマンと演出家の間にも論争がおきます。二、三紹介しますと「記録映画に鉄のコンテが必要なるや否や」という論争が提起されるんです。
 鉄のコンテというのはなにかというと。会社は「おまえに撮らせるけれどもしかりしたシナシオを書いて出せ」というわけですね。「どこにいって、なにを撮るか、それによってお前にフィルムをやるよ」というわけです。鉄のコンテのことを鉄鋼脚本というんです(笑い)。「そういった要求に服すのは、記録映画を撮るのに正しいことだろうか」という素朴な疑問が出ます。
  
 それから、「監督が現場にいかないことは、けしからんことではないか」という意見がでます。亀井さんは「そうだ、そうだ」といいながら、カメラマンを信頼しているんですけれども「カメラマンはルーペからしかものを見ない。目隠しされた馬のようなものだ。」といいます。
 これは有名な論争なんですけれども、「キャメラールーペ論争」というのをやるんですね。
 大ベテランのカメラマンの三木さんが俺を「馬」にしたと猛然たる反駁を加え、「しかし、ルーペの中でものごとを把握するのに十年かかる。カメラマンはそのルーペでしか映像を実現できないんだ。しかし、監督といっている若い諸君よ、あなたがたはルーペのなかで現実を見られるのか」というふうに言うわけですね。本当に怖いような論争を仕掛けてくるわけでそういったことでとてもいい雰囲気が出来るんですけど、その時に口をすべらした亀井さんが叩かれたりして言葉を濁してしまい、尻切れトンボになりました。実践的には『戦ふ兵隊』では「俺はどうしても出る」といって現場に出ていくんですね。しかし、カメラマンが立派なものですから、時々カメラマンに現場をあずけて、遊んであるいて現場にいかなかったりしたこともあったらしいんですが。しかし、『戦ふ兵隊』では現場に行って演出するんですね。
 やりすぎもするわけです。「やらせ」もやったりするわけです。そんなことで「お前は本当にドキュメンタリストか」ということで岩崎昶さんから批判されるわけなんですけれども。
 そんなわけで、若いとらわれのない青年たちに、軍は記録映画を与えたわけですね。その記録映画の果樹は戦争への意識を駆り立てるためのものであることははっきりしているわけですけれども、その中で軍部の気持に多少の揺れがあったようです。
 亀井さんはあまりたいしたことをやったとは思っていなくて、『上海』について「俺はコスモポリタンでアナーキストだから、中国の人の気持も考えてこういうふうに作ったにすぎない」という言い方をされています。

 さっき『上海』が分水嶺だといいましたが、『上海』が圧倒的な人気を得て、次々に作品が生まれてくるころに、文学者に対する「注意書き」が映画人にもくるわけです。
 文学者に対する注意書きというのは火野葦平などの文学や、従軍していく文学者に対して全部かまされたもので、亀井さんの記憶によればこうです。これはまだ検閲が始まるまえで、これだけは心得えてやれということでした。
一、負けているところを書くな。
二、戦争の暗い面を書くな。
三、作戦の全貌を書くな。
四、部隊名を明記するな。
五、敵をいやらしく書け。
六、軍人を人間として書くな。
 (生きて猛将、死ねば神さま)
七、女を書くな。これは二つのだと思う。中国の女性を強姦するのが日常的なわけだし、それを防止するためにパンパンというのかピー屋というものを用意した。

 これは、いまいわれている従年慰安婦問題ですね。こういったものを書いてはいけない。従軍慰安婦は軍が派遣しながら書くなといっているわけですから、記録に残っていないわけですよ。亀井さんもこのことは頭にいれて、これの裏をかく方法論を考えざるをえなかたということがあると思うんです。
 『戦う兵隊』ではこの制限を念頭にいれて、どうやってこの裏をかくかということをやったと思うんです。
 映画評論家の佐藤忠男さんは、簡単に「これは権力を騙くらかす彼の方法で、編しといっています。そして続けて「しかし、観客は「騙し」のうらに亀井さんがだしたかったことを見る時代だった。つまり、軍国主義一色の映像があまりにも氾濫している時代に、彼の映像はピカッと光ったリアリティをもっていた。だから、ナレーションや字幕で国策的なことをやって、検閲の目をごまかして権力者を編しても、観客はそれをちゃんとうけとった。それを亀井さんは信頼したし、そういう編集方法をとり、字幕やナレーションの扱いで彼はやってのけたんだ。その編しが効かなくなって、彼は戦争時に投獄という道筋にはいったのではないか」と荒っぼくいっていますが、はたしてそうであったかどうかというのは、もうちょっと考えなければならないと思います。
 
 つまり、「編し」というふうに割り切った作家表現というのはありえないと思うんです。効果としては、ロング(遠景)でみると編しかもしれないけれども、それは切実にその映画を撮った時点における彼の方法と一生懸命な姿だったのではないか。どうも「編し」という人格のあり様からは、映画というのは出来てこないように思うんで、その点は僕は意見をもっております。
 もう時間かありませんので終わりますけれども、亀井さんについていろいろ勉強したい方は、最近出た本なので紹介するんですが、都築政昭さんの『鳥になった人間』という本が講談社から出ています。
 亀井さんについてはこの四、五年ですけれども急速に勉強なすって、本にまとめられて、この中にいくつか面白いことが書かれています。
 ぼくが知らなかったことも書かれていますので、もし興味のある方はお読み下さい。
 それから、東宝時代に作られた『上海』のオリジナルなシナリオがございます。特に研究されたい方は申し込んで頂ければ、僕がコピーしてさし上げられるようにします。今日は時間かありませんのでこれで終わらせて頂きます。