畏友なるもの、もしあれば 『横溝洋画集』 <1992年(平4)>
畏友なるもの、もしあれば 『横溝洋画集』

 このたび、横溝洋と格別に親密でもなかった私に、画集のスペースを与えられたこと自体、奇異に思えてならなかった。はま子夫人によれば、生前、かれの、夫人を相手の表現談義のはしばしに、私とその映画が引き合いに出されたという。言葉少ない夫人の答えに謎かけのようなものを感じ、このひと月あまり、私は贈られた横溝洋の著作集と数葉の代表作の複製画を座右から放せなかった。
 横溝洋と私は、麻布中学校、早稲田大学(かれは理工系、私は文科系)と進路をともにしたが、そのことでとりわけ学友であり、親友であった経過はない。もともと私は同窓会のつきあいはしない。巣立っていご、別れ歩むこと芒々たる二十年をへだてれば、かれはかれ、自分は自分である。群れることへの忌避がある。だが、それは横溝洋にしてもひと一倍つよい性向であることは分かっていた。
 その横溝洋と二つの時期に鋭く出会っていた。今回、この小文の寄稿の機会を与えられて、あらためてそれを反鍔することになる。

 同窓の中学時代は省く。最初は敗戦後、それぞれ日本共産党に入党した。早大の党細胞、学生自治会の活動家として、いわば同志として出会った。その後、二十年ぶりに再会した。            
 かれは「系」の連作を発表、私も記録映画『水俣』の連作を公開した、昭和四十年代の終り頃であった。これは畏友の交わりともいえる緊張をはらんでいた。

 かれの著作集『表現とはなにか』『私的空間』など(築地書館刊)に、昭和二十年代、青年時代までの池上村が詳細に活写されている。大学時代、私はそこに招かれ、夜を徹して社会主義リアリズム芸術論や革命を論じ、果てはいかに生くべきかについて疲れをしらない論議に耽った。その座敷と庭の記憶は風景としてあざやかにやきついている。豪農というか地主というか、広大な敷地に、柱の太く、茅葺きの旧い家棟があった。まわりの由緒ある道具立てが明治の維新に夢を描いた草莽の志士のような気分を誘った。不意に私は島崎藤村の「夜明け前」の半蔵、木曾谷の旧家の跡取りながら、新時代の到来に奔走する主人公をかれに重ねあわせたりした。

 戦後、労働運動、社会主義思想は広く人々の心をとらえたとはいえ、少数者であったことに変りはない。私の場合、都市窮民の子弟だったから主義と生活レベルが釣り合っていると自覚していたが、かれがその名望ある旧家から体制への謀反を憚らない活動家となったことにある種の心意気を感じた。事実、自由主義教育をうけた麻布中学出身者からでさえ、共産党に参加したものは、同窓二百余人のなかで十人に満たなかった。エリート意識のせいか、多くは近代主義者であるか、シニカルな体制批判者だった。その同窓のなかで、政治的人間を鮮明にしたかれと、あらためて一人前の同志仲間として語らいあえることは訳もなく楽しかった。

 かれは戦前戦後を通じて非転向を貫いた共産主義者を俎上に、その強靭な自律の精神を語って倦まなかった。新憲法制定も束の間、占領政策として公然とレッドパージが行われ、大学教授の追放が日程にのぼる反動期になり、再び、思想ゆえに生活を追われる時代を予感せざるを得なくなっていたからだ。だから、私もまた思想的によって立つ自律運動を、いわば命にひきかえても欲していた。だが、その方法論などありうべくもなかった。中国共産党の指導者、毛沢東、劉少奇の思想、「大衆に依拠せよ」などの言葉をむさぼり読んだ。それはわれわれ世代の感性を色こく染めた。

 昭和五〇年、コミンフォルムの日本共産党批判にはじまる党の分裂は学生組織を直撃した。これは分派をうみ、相互にスパイ、階級的裏切り者と、その腑分けを党員個々人に強いた。転向は権力の側からではなく、党内部から迫られた。個人の自律こそ問われたのだ。
 私が党の分派再教育として山村工作隊に派遣され、極左冒険主義を愚直に実践、青春時代の革命への憧憬を自ら粗暴にけとばしていた時期、横溝洋はあえて「沈黙した生活者」に沈潜する道を選んだ。そこでひとりでなしうる絵画に表現を選択したという。もう三十一歳になんなんとするころだったろうか。学生時代、革命的知識人としてその行動的燃焼をいわば生き方の美学にひきあげたかれを見てきた目には、かれの選択は教養人の世界に回帰していくことかに思えた。一方私は多くの同志、仲間とのそっけないまでのふりきりかたで私の道を走った。「横溝洋が絵描きになった…」、それは謎として抱えながら。

 私も三十歳ちかくになって思いもかけなかった記録映画の道に足を踏み入れた。なにか手応えを得たのは『水俣病』の映画の連作にはいってからだ。時代と作品との「やさしい解遁」ともいえた。映画と生活が一致し、心の均衡をからくも得たかに思えたその時、横溝洋は私のまえに十字路上で会う人のように立っていた。かれも表現が生活のすべてであった。かれは率直に等身大の問題を提起し、友情あふるる交信を送ってくれたのだ。
 かれは私の映画のこわいまでの読み手だった。崖ぶちにたたされた水俣病患者の発する表現に喚起されて止まないものがあったようだ。私の映像表現には対する映画批評なるものとはおのずから切り口が違っていた。表現に一生を賭けるとはどういうことか、プロの絵描きの問題レベルを超えて、「生活者の全表現とはなにか」の自問をぶつけてきた。

 私の畏友とする黒木和雄はかれの「系」の独自の美を直ちに理解した。「圧倒的に綺麗ではないか」という。私にはその美に惹きつけられるだけではすまない不可解さが在った。
 横溝の著書には、かれの絵画表現がかれの思想の明晰化作業に不可分であることが繰り返し語られている。これを読んで、私はかれの絵画表現の独自な位相を知りはじめた。だが一知半解のまま。連作「系」は分りにくかった。切り裂いても、切り開いても底知れない心象を描いたものといった程度の理解しかなかった。なぜ具象でないのか、なぜ形あるものに興味がないのか。私の「分らない」「読めない」との表情は顔にもでた。しかしかれは口にだして解説することは一度もなかった。
 
 ある画家の水俣病をテーマにした画業を映画化した時、いつものようにかれは夜更けに電話をかけてきた。「君の映画は覚醒していない」「酔った勢いが残ったままだ」と言い放った。これには胸を挟られた。かれは「おれは酔う。だが、おれは醒める」といった。
 癩だが、私の作法の根幹への批判として聞いた。あきらかにかれの酔い方は深かったが。
 
 かれの私の映画への感想から横溝洋作品をみる手掛りが開かれた。からまる絵を見直す。
 かれの「系」にある卵子や精子ようの運動図にいつもバッチリとした眼のような球体が残像となって気になっていた。それを眼と見れば明晰そのものである。「待てよ、これも人間の像では…」。或いは克明にして忠実な自画像ではないのか。眼をヒントにして画の動きを見る。みるものの安易を拒む何らかのカラクリがある。その挑戦性はなにか。振り子の動因は?「美しいが、拒絶したくなる」と思う。とても自室に飾って安らげない…。
 
 かれが『表現とはなにか』に繰り返し拾っている言葉がある。「祭も革命も色あせたこの日本で暮している私にとって、表現を支え続けるものは何か。私の好きな言葉…大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆。(谷川雁)」。かれは鋭い大衆として私の映画に迫ったのだった。見事だった。だが返す刀でかれも切られざるを得ないではないか。
 
 著書にいう。「…では私の表現を支えるものは何か。色あせ、相対化したとはいいながら、戻る所はわが池上村であり、縁日に溢れ返っていたオジサン、オバサンたちの世界である」。横溝洋の表現がインド、そしてイスラム世界の旅で変わったことはかれ自身衝撃的に語っているが、その感応の原点にかれの幼児体験に刻まれた縁日の地獄絵がある。怯えるまでの細密、狼雑な地獄絵。にも拘らずそれを楽しんでいる生活者の群れ。その二重性の感得が「系」を描かしめるという。だとすれば、その地獄絵だけを自分の絵の原点にしたある原爆画家への批評は至極もっともに思えた。かれはその先へと自分の表現を追い詰める。「色槌せない」水俣、三里塚への横溝一流の洞察をもって振幅しながら。

 「むしろ私の表現は縁日の地獄絵より、それを楽しんでいたオジサン、オバサンたちの現実=かれらの生きざま、今や雲散霧消したというべきかれらの『凝縮された沈黙』をたった一人で幻想するしかないのではなかろうか」。そうだ。一人でだ。ひとり相撲しかない、と思う。かれは自己増殖の原理にちかづく。「表現者における酔いと覚めとの間の激しい往復運動が、表現者の自転をからくも支えている。表現者は自転し続けなければ倒れてしまう。しかもさらに問題は、表現者の自転が、どこを軸に公転しているかである・・・」。
 さらにいう。酔いと覚醒を往復させて、ひとびとの沈黙の世界を現すことのできるシャーマンに。公をたくして「私がもし自らの内なるシャーマニズムを活性化できれば、日本の土着的世界、民衆のカオスの領域をも表現できるはずである」(『表現とはなにか』)。
 だからこそ、映画のなかの。水俣のシャーマニズムに活目し、私と再会したのだった。
 
 かれのキーワードのひとつは「明晰に」である。覚醒と明晰へのかれの執念にひっかかりつづけていた私は、かれの初期の作品(一九五二年、アンデパンダン展)『工場』を知って、かれの表現の歩みだし方に立ち会った気がした。具象だが明晰な意識世界である。
 その署名はロシアのキリル文字で書かれた。が、ストライキ中の工場の「テーマ性」は見事に内面化されている。そこにあるのは『表現とは』をめぐるかれの自問への答案のように渾然たる完成を見せていた。安部公房が高く評価したというが、さもあったろう傑作であった。

 横溝洋は転向することのない自律の表現を求めて闘った、と思う。「何年、十何年経っても、自分の絵に描き足しをする。それが面白い」という。かれの表現は何時、どこまでで完成といえるのか。連作の「系たち」も年齢、歳月相応であらせたいと思うのか。思うだけでなく、横溝は描き足してしまうのだ。いわゆるプロなら恥じて死にたくなる所業だろう。この自在さはかれが真に個にして自由なるものの表現に行き着いたからではないか。
 かれの文章に特有の「補遺I」「補遺Ⅱ」「補遺Ⅲ」そして「蛇足」とつづく文体の魅力と同じであろう。闘いには終りがない。つぎつぎに自転して止められない。
 
 その試行を無駄、徒労と怪しみもした荒行を、ひとつ超えたのでは…というかれの言葉を聞くようになった。それとほぼ時を同じくしてかれはこの世を去った。酒がもとで死んだ。誤解をおそれずにいえば、それゆえに非転向の美学を貫いた生だったといえる。
 畏友を失った。この画集がかれの増殖の記録であるなら、絵からのその都度の理解の「補足」、解読の楽しみは、いつまでも私に生き残るだろう。
 (1992/10/15)