記録映画における「採録」シナリオの文字化の試み 『新日本文学』 復刻版付録11月3日 新日本文学会
記録映画『水俣ー患者さんとその世界』のシナリオの全文が新日本文学に掲載されたのは、映画がロードショウ公開され、いよいよ全国に配給される一九七一年初夏であった。私の作品はもとよりそれまで記録映画が採録され文字化される例はきわめてまれだった。だが作者として、この映画ほどそれを必要に感じられたことはなかった。その理由に三点があげられよう。
第一にこの映画が三時間ちかい長編になった理由でもあるのだが、意図的にインタビューを取り入れた証言性のある作り方だったからだ。水俣病事件をひきがねに「公害元年」といわれた頃だが、その時期でいえば、文学作品としては石牟礼道子氏の『苦海浄土ーわが水俣病』が牽引力をもって出現したほかは、事件史としては富田八郎(宇井純)の水俣病など専門書がみられた程度だった。映像情報も一時間未満の番組であり、水俣病の全体像に迫るにはテレビの時事報道的な枠を免れなかった。私たちの映画の場合は、副題に「患者さんとその世界」としたように、この作品では患者の語りとその患者の身辺から放射状に事件に照明をあてようとした。だから、「聞き書き」を資料と証言として文章化しないではいられなかった。
第二に、やはり「方言」の問題があった。熊本弁に天草ことば、そして鹿児島の方言まで混在する水俣の漁民社会の日常のことばは、字幕などの切り削いだ「翻訳」ではとても追付かなかったかったし、その語感や息遣いへの観客の集中力を字幕で散らしたくなかった。だが、その言わんとしたことは正確に伝えたい。その点、テキストとしてに文字化は映画に編集に平行して準備していた。文字ならニュアンスを書き留めえたからだ。
第三に劇映画のシナリオとまったくその成り立ちを別にする、記録映画のシナリオなるものの位置づけを試みたかった。私のドキュメンタリー映画の方法として、ノートはつくるがいわゆるシナリオなるものは作らないし、作れないものとして、劇映画のそれと画然を対位させてきた。劇映画のシナリオがセリフの推敲に心血を注ぎ、ト書きに心理と行動を書き込んでいく厳密に映画の発想の文字化であるのに引き替え、完成を経てからのいわゆる採録シナリオには、ドキュメンタリー作品のさらにドキュメンタリーといえる創作にその生命がある。とくにト書きにあたる映像描写の文字への転化にあたって、その意図を超えて記録されたその映像をいかに読むかの再批評が要求される。劇映画がト書きに「彼はあるく」と一字付記しても、前後のセリフや劇の進行でその「歩き」は帰納的に演技されるかもしれないが、記録映画の場合、その歩きかたひとつからも想像力をかきたててやまない「発見」がある例が少なくない。それを私が改めてどのように見るかについて、その現場に立ち会った作者としてのこだわりを記述しておくことは、記録映画の創作方法の線上の一貫した作業でもあると思う。まして映画が「資料」として見直され、時間を経てからいま一つ別の視点から解読されるときを思えば、それは義務であるとすらおもう。
当時、紙数もかさむこの種のシナリオを発表する場は映画専門誌にもシナリオ雑誌にもなかった。劇映画のシナリオしか社会的に認知されていなかった。それは無理もない。映画の思い出のよすがにと言ったあらすじや解説程度の認識でしかなかったからだ。だが、フィルムと活字ではのちに裁判の証拠がためとして映画が法廷上映されたり、環境庁長官の勉強に使われたりするに及んで、このシナリオが役立ったことを付記しておきたい。ときに第一次資料の扱いすらされるのだ。
新日本文学だけが表現分野を越えてこの映画の記録性を注目してくれた。私を新日本文学に誘った武井昭夫氏であった。「映画を作る人間は間違っても物書きになるな。絵だけで勝負しろ」という映画の先輩の教えに感じいるもののあった私はその勧めを固辞したし、およそ場違いの意識をもったものだが、こと記録に関しては一体感を与えられた。水俣病映画に関しては、すでにその製作途中から創作意図を書き込んだ「水俣ノート」(七〇年一一月号)を掲載していただいた。生硬で反公害のアジビラのようなその一文と、その執筆から一年後の「採録シナリオ」との、同一作品とは思われないような違いと異質さに、映画の生まれ方とその激変のむごたらしさを見て頂けるかもしれない。記録映画のプロセスやその内部運動をとどめる意味でも、文字化作業はまだまだ記録方法論として論議されてしかるべきだと、顧みてその感を深くしている。(一九九二・一一・三)