北方四島をめぐる領土問題 月刊『私学公論』 1月10日号 私学公論社 <1993年(平5)>
 北方四島をめぐる領土問題 月刊『私学公論』 1月10日号 私学公論社 

 “今”という時代                                      

 与えられた課題は普遍的な時代意識がそのテーマかと思うが、一人の記録映画作家としては、所詮、自分のいま抱えていることから離れて語るのは、得手ではない。先に本誌(五月号)に「異文化」の話を、むかしのシベリア体験で語らせて頂いたように、ここでも、今年、その半ば以上を費やした「私の北方四島」の報告で語らせて頂きたい。
 この問題に引きつけられたのは、二五年前の記録映画『シベリア人の世界』以来、シベリアに関するスクラップを続けていたからだ。余談ながら、私は資料収集の時間の大半を新聞や一部の雑誌記事のスクラップに当ている。仕事上、これは私にとって打出の木槌のように便利なのである。
 その「シベリア」に種々雑多な項目がいっしょくたに入れてある。たとえば「中央アジア」も「モンゴル」も、ときに「シルクロード」まで切り抜くという始末で、このパソコンの時代、スピーディーな検索ができる世の中から見れば手仕事もいいところ、とても人様にみせられるものではないが。
 その「シベリア」にしばしば「北方四島」問題が登場してくるようになったのは、一九八五年からだ。その年末、ゴルバチョフ書記長のブレーンであったプリマコフ世界経済国際関係研究所長が、かつて鳩山・フルシチョフ時代に文書化された日ソ共同宣言の「歯舞、色丹島二島返還」をあらためて示唆したことから、日ソの最重要課題としてにわかに再浮上した。さらに、九一年のゴルバチョフ大統領、そして九二年はビザなし渡航の実現によって、島々についての情報量も格段に増した。
 私はシベリア・ロケの体験からウラル山脈から東は、アカデミー都市・ノボシビルスクなどを除けば、ヨーロッパ・ロシアとは別の国のように見える。とりわけ千島列島はシベリア人すら「ロシアの地の果て」といっている異域である。多種多様の民族のありようはさておきシベリアのロシア人についていえば、体制から弾かれたり、流刑されたりした人々をルーツとする人も少なくない。ロシア風にいえば「好きこのんで、ここで暮らしているわけじゃない」ひとびとだ。北方四島の島民もウクライナ、ベルロシア、中央アジアから難民同様の姿で入殖したひとびとという。そこに正直にいえば哀切な思い入れがある。
 そもそも「北方領土」問題がもっぱら右翼の反ソ攻撃材料としてまがまがしく叫ばれることへの嫌悪が先立った。社会、共産両党の「全千島返還」という政策(平和条約案)にも違和感があった。自民党の「四島返還」を上回る要求に思え、右翼から左翼まで運動史上稀に見る全国民的合意にはとりつく島もなかった。むろん社会党がお墨つきとする毛沢東のいわゆる「千島返還支持」見解にも、ロシア嫌いのかれの意図が露骨に思え、到底納得するには至らなかった。つまり、尻込みする問題だったというのが正直なところだ。
 今年、サンクトペテルブルグ(元レニングラード)の映画の本邦初公開の期に来日したロシアのアラノビッチ氏(記録映画『私はスターリンのボディガードだった』の監督)から、かれの企画する北方四島問題の新作への協力を頼まれ、断りきれず不承不精調査を引き受ける羽目になった。
 その調査に携わって、最初に意外だったことがある。元島民の声の記録がないのだ。
 この二、三年前から北方領土問題についての本が相次いで出されていた。外務省や根室市のパンフレットは別として、解説書や社会学・現代史的な論文や両国の見解集、ロシアの改革派の日本学者の訳書からルポなど枚挙にいとまもない。また、マスメディアも墓参の再開に随伴し、あるいは独自取材により知られざる島の特集や見聞記、写真も速報された。テレビもスターリン時代の内部文書や当時の旧フィルムをモスクワで発掘するなどして、優れた番組を続々と発表した。その質は高い。だが、元島民の声やその考えに深く触れたものは皆無に近かった。
 北海道選出の社会党選出参議院議員に実情を聞いてもよく知らなかった。「日ソ両島民の共住」の論は聞けても、その方自身は根室に足を運んでいなかった。優れて、ネットワークの運動をしている札幌在住の友人ですら、北方領土問題で根室方面に人脈を作ることは困難だという。かれによれば、札幌での北方領土問題の市民意識はほとんど東京と大差なく、北海道ですら、狩勝峠のむこう、釧路以東でなければ元島民のことにはそれほど関心がない。ここの漁業問題の特殊性からか、その市民性はとかく閉鎖的だという。
 戦後、筑豊、水俣、三里塚、下北半島といった問題の地から、少なくない記録文学、諸表現が生まれている。しかるに「国民的問題」といわれながら、この記録の寂しさは何といえばよいか。これ自体、私の逃げ腰な態度に痛く刺さった。私自身があきらかに疎外していたのだ。なぜだろうか。
 そのような疑問を抱ながら私が道東、根室を訪ねたのは、エリツィンの訪日を前にしたこの夏だった。当然、現地ではさまざまの思惑、さまざまな発言が出るべくして出ている時だった(かれは突然それを中止したが)。現地入り早々、私のいくつかの先入観は崩れた。
 まず、気が抜けたのは街に右翼の、ウの字ほどの気配もなかったことだ。過去にもこの根室市にかれらが街宣車を入れたことはなかったという。むしろ、その八割がなんらかの形で北洋漁業に関連している根室市民は、かれらにそっぽをむいて入れなかった(H新聞支局の話)。「領土」問題を声高にさけべば、ソ連の二百カイリや国境の海での安全操業にさしつかえることを恐れ、かれらを刎ねつけてきたという。
 また、エリツィン訪日への元島民の覚めた見方にも驚いた。どっちでもいいかのようだ。
 そもそも、北方四島の問題はこの数年の間に二度、つよく返還進捗への期待を抱かされる機会があった。言うまでもなく、一九九一年四月のゴルバチョフ・ソ連大統領と、その翌年九月のエリツィン・ロシア共和国大統領の訪日(予定)時である。
 九二年四月からゴルバチョフ大統領の公約どおり実現したビザなし渡航は、やはり画期的な出来事だったようだ。元島民とロシア島民の直接交流はその数、北海道側から三班二二〇人、北方四島から四班二三〇人に及んだ。但しその通訳は相互に一人二人しかなく、意思の疎通は極めて不十分なものだったらしい。(根室市役所にさえ、ロシア語を解する人一名がこの年はじめて配置された)。
 元島民のなかには外国旅行の経験者も少なくない。シベリアからモスクワ、レニングラードに足を運んだ千島歯舞諸島居住者連盟の指導者もいる。また、四島に墓参に行った老人も少なくない。だが墓参ではオープンな住民同士の交流はセットされなかった。戦後、直接に交流する機会を持ったのはビザなし渡航が初めてといってよい。
 元島民に聞くその第一印象は「全くの外国だった」ことだったようだ。島にはかつての日本の生活様式の跡形もなかった。墓すら風化し、すべてロシア人の町になりきっていた。海沿いの家々と集落は無くなった。昭和20年代の終りのチリ大地震の津波によって破壊されたとも言われるが、すでに廃屋になっていただろう。この島に入ったロシア人の漁業形態は集約的コルホーズ漁業(最終工程が塩蔵または缶詰)で、個々の漁家の散在を必要としない。加工と出荷の拠点に街を造成した。個人で漁業を営むのには欠かせない浜の納屋もコンブの干し場もそこにはない。打ち上げられたコンブも他の食用海草もうち捨てられている。ウニもかれらは食べない。食性が違うのだと知る。
 同伴した若いマスコミの人は古びたアパート、道路の悪さ、波止場のみすぼらしさに肩をすぼめる。だが、元島民は道とは馬の脚の幅しかない「けもの道」しかなかった往時とつい比べ、見違えるほどの幅ひろさに感嘆し、開拓はじめの掘立て小屋時代を知る元島民は地域集中暖房のアパート群にある感慨をもつ。漁業者であっても漁家には住んでいない。漁業コルホーズの労働者だ。灯油ランプかせいぜい懐中電灯の夜の生活だったが、豆電球にせよかれらの各部屋ごとにある。そんな生活の原点でくらべてみる。「悪くはない」と思ったが、口にはしなかったと苦笑する。
 そのマスコミの人が、島に「内地」には失われた大自然が残されていることに感銘をうけるが、かつての原風景を知る元島民としては、街に接する川や森に見るに忍びない汚染を見る。「万事につけて見方が違った」と元島民はいう。               
 下調べの折、墓参団の元島民の平均年齢が、二世をふくめても六十三歳とあったのを読み、「これではもう日本側(島民)の負け」と思った。島の平均年齢はその約半分だからだ。日本の辺境に若者が背をむけてから久しい。だがロシア人はそこにいる。その差だ。
 元島民はやはり島のロシア人の家庭にうらやましさを感じたという。年寄りを養う働き盛りの夫婦がおり、その子や孫で一家は賑わっている。義務教育のこどもたちは、当時の島の日本人生徒の10倍(色丹島)。その子らを底辺にピラミッド型の若々しい人口形成の典型が島にはある。近年、人口三割減の根室、近郊農漁村の学校の生徒不足による廃校の現実を思い、振り返って、自分の核家族化した日常を思ったにちがいない。
 「このロシア人に島から出ていけと言えるか」との元島民の帰国談が物議をかもした。それは北方四島問題の元住民「当事者」の口から出てはならなかった。国の「ふるさと四島一括返還・政経不分離(経済交流への制約)」の方針に反するからだ。だが、島を見た元島民は「返還は望むところ。だが、よしんば島が返らないとしても仕方がない」という一見矛盾した諦めを隠さなかった。この変化は突然だったのだろうか。 
 九二年夏でさえ、エリツィン訪日に過大の期待を懸ける元島民はほとんどなかった。むしろ急展開して返還が実現することになったら、逆にかれらは困惑したのではないか。それほど現実に心の用意がなかったようだ。
 元島民の「失地回復」としての返還願望は、まだ戦後の終わらない時期、鳩山首相とフルシチョフとの「日ソ共同宣言」(一九五六年一〇月)までは、帰心は直線的につながっていた。七三年の田中・ブレジネフの「共同声明」頃ならば、まだしも元島民は「現役」復帰の夢を持ち得た。それから以後二〇年間、この冷戦の終わらない如く、島は返るはずがないとの諦めと葛藤しながら、そのやり場のない思いを梃に、返還運動のたすきを掛けて全国行脚をした。だがゴルバチョフ大統領の訪日前後からにわかに信じがたい展開が生まれた。積年の望郷の思いだけはビザなし交流によって確実に放電した。「こうして島に自由に墓参りできたらそれでいい」(元国後島民)。
 老いた元島民たちは返還運動の主役の座にすわらされることに疲れ、「二〇年前ならなあ」という愚痴がつい口にでる。いまさら返還されたからといって、すぐに島へ帰って何かをするといったビジョンを持てる齢ではなかった。かといって身内に「島民の跡継ぎ」のあてはない。元島民は仮の宿に身を寄せた「引揚げ者」ではなく、北海道に根を下ろして四七年、見事なまでに自立した道民になっていたのだ。
 こんなジョークを聞いた「島がもどったら絶対行かされるのは公務員だ。お役人、警察、学校の先生、それに電々公社の人だ。あの僻地に配転されやしないかとビクビクものだろう」。
 島民の持つこの屈折は現地根室市では理解されている。最近、会の運営のささいな責任を問われた千島歯舞諸島居住者連盟会長の箭波光雄氏は、二〇余年にわたる要職からさばさばと身を引いた。行政当局はそのあっけない引責辞職を予想だにしなかった。しかし、元島民は惻隠の情をもってその引退を見送った。これは時間の経過のもたらした、いわば自然的風化といえる。
 だれにも共通して「自分のいのちのあるうちに是非解決しなければ降りるに降りられない」問題を指摘する。島の旧漁業権に対する補償である。全国の漁民の補償は新漁業法(昭和25年実施)によって決済されている。島民だけが島の返還後にと先送りされて四〇年経った。当時の補償額を今日の指数で換算したら、その総額は元島民の試算では国後島だけでも時価二九八億、四島では一千億円といわれる(桝潟喜一郎氏、水晶島出身調べ)。さらに厳密にいえば「元島民の財産は土地、家屋、漁具、そして漁業権の不行使による逸失利益まで補償されてしかるべきだ。なぜなら北方四島は日本のもの、というのが一貫した国の方針であり、自分らは日本の納税者として一貫して国民だったからだ」。その総額を一兆円と試算している(桝潟喜一郎氏)。
 これだけは風化させはしないとだれもが考えている。軍人恩給もシベリア抑留も従軍慰安婦も一緒の問題だというのだ。国是としての北方領土返還運動は、地元の漁民の「そんなに騒げば、魚獲りに障る」と白眼視されたときもやってきた。おとしまえは付けてほしいというのが偽らざるところだ。これにはクールになって当然だろう。この気持のうらには元島民自身ののアイデンティティーを問う心がある。
 敗戦後、いちはやく日本軍は撤収したが島民は残された。元島民のなかには逸早く島から脱出したものもいれば、二、三年島にとどまり、ロシア人に漁業を教えながら、平和条約締結の日を心待ちして耐えた、そうした元島民も九千人いた。ソ連軍進駐以後、本国からの連絡はまったく途絶えた。「四島に沢山の日本人が残ったのに、日本政府は『無人島』のように見過ごした」(西田貞夫、色丹島)。そしてソ連当局からソ連国籍をとって帰化するか、それがいやなら日本に引揚げるかと迫られた。「国もソ連は憎いというが、無人島の鳥にも劣る扱いをしたことについて、国としての謝罪はない」(同上)。
 こうした自分史の告白には時宜を要する。今回のエリツィン大統領の訪日の中止によって、かえって元島民にわだかまっていたモヤモヤが吹っ切れはじめたのかも知れない。追い立てられ、駆り立てられるこの一年だった。少なくとも自分の本音と向き合える余裕を持つことができた。「島より自分が大切」。はたして「自分たちは何者であったのか?」と。
 年老いた元島民に向ける「返還後、あなたは島に帰りますか」という質問ほど彼等を悩ませるものはない。もっと別の質問はないのかという苦渋が見てとれる。一転して島の思い出話になると活気づく。その体験にはディテールがあるのだ。
 四島訪問時にロシア人と身振り手振りでそうしたやりとりをしてきた人もいる。「島の事なら、私はかれら(ロシア人)の先生だった」。「魚やカニ採りやコンブ干しの話になると通訳ぬきでも話し合えた」「島の自慢をお互いにしたあとに友情を感じた」ともいう。
 多くの訪問記やルポは「両島民の間で経済交流の話が活発だった」と書く。それに対して国は「経済交流が独り歩きすれば、ロシアの島への固執は強まり、領土問題の政治的解決はさらに遠のく」と否定的である。だが元島民はロシア人島民といわゆる経済交流の形にあてはめて漁や海の仕事を語った訳ではない。島への愛着、海への共感について語ったに過ぎない。そこで「誰よりも現島民を理解できるのは元島民のわれわれなのだ」と自負を覚えたのだ。
 それは根室の漁民一般にもいえる。密漁と拿捕の五〇年近い歳月の中で、のべ九千人余の漁民が逮捕、抑留された。それには元島民も少なくない。島のどこにホタテ貝やツブ、カニがいるか熟知しているからだ。魚相手の仕事には知恵も悪知恵もある。「漁師に少々の盗人っ気はつきもの」と漁民自身が笑う。ロシアの漁業は万事拙劣だと内心では思っている
 最近、根室の花咲港の岸壁にも「買う漁業」が見られる。北方四島産の活魚がくる。漁師の目でみる時、ロシア人のカニやウニの扱いは見ていられない。脚のもげたカニ、腹の開いたものや死んだカニはその場ではねられる。それが五〇%に及ぶこともある。ウニは時に八〇%もキャンセルされた。それらは帰りに海に捨てられる。
 脚のそろったカニ、活ウニでなければ引き取らない日本の市場である。日本の漁師はその市場の厳しさに鍛えられ、魚の扱いには熟達している。だから歯がゆくてならない。「なんという勿体ない扱いか、手を取って教えてやらんか」と気を揉んでいる。技術指導をしないでいいのか(それは島の当局からも切望されていることだ)。
 これは一例に過ぎない。気の遠くなるような漁業技術の差異が横たわっている。経済交流の進展にともなって諸問題は果てしなく出てこよう。しかし、だからといって北方四島が返還され、日本の漁業にとって代わればいいということではなさそうだ。
 公海での底引き、流し網は完全に締め出され、日本は領海、沿岸漁業に引きもどされる時代になった。その今、コンブやカニ、ホタテ貝などの高級魚の取れる四島の沿岸漁業が、日本の市場本位に見直されていることへの危惧があるからだ。
 最近の漁業用電子機器の威力は漁民なら、誰でも知っている。もし漁業資本が真っ先に島に入れば、磯や浅瀬のみならず、領海の資源は根こそぎになるおそれがある。それを惧れる沿岸漁協がオホーツク海沿いの野付半島、羅臼、知床、サロマ湖、紋別などに連なっている。
 北洋にむけての漁業基地、根室のかげにあって、その遠洋漁業権を持たなかったかれらは、隣の同じ中小漁協との境を厳密に区画され、沖は国境の海という限られた条件のなかで、それぞれの漁場に合わせた育てる漁業を作りあげてきた。島が荒らされてはそれに響く。
 そのかれらに道や国の水産行政への批判がある。「島の魚の資源保護の監督はむしろロシア側にやってもらった方がいい。日本の役人は御免だ」といってのける沿岸漁民もいる。力と金のある漁業資本と行政(規制監視)側の癒着を見てきたからだ。
 日本沿岸の公害、開発による環境破壊を免れた稀有の島々を目前にして、これら漁協には「帰ってくるな北方四島」という意見すらあるのだ。
 根室市ではあまりにも政治的ないきさつが推移した。だが、オホーツクに面した普通の中小漁協はエビ、カキ、ホタテ貝の「育てる漁業」が定着した。
 「コンブの胞子は国境の貝殻島の向うから流れてくる、稚魚、稚貝などは島周辺で育って道東に戻ってくる」とかれらは見ている。「四島は魚にとっての天然の養殖地」なのだ。
 私が見聞きした現地は、実は施政者よりはるかにロシア人と島の当局と触れてきた。憎み合い、騙し合いもしたその分だけ、縁も深めたようだ。監督官はむしろロシア人がいいといった言葉に「逆縁」を感じた。経済交流以前の人間交流はすでに始まっている。いや、戦後から特異な交流はあったのだ。拿捕と密漁の歴史に、その不幸にして人間くさい歳月のなかに、まともに海での共生ができたらという現状変革の契機がありはしないだろうか。
 北方四島をめぐる領土問題の解決は東京、モスクワにはない。ここを差し置いての「処分」はあってはならない。それが私の今の視点の置く所である。(九二・一一・二〇)