水俣市「謹製・水俣資料館」訪問記 『熊本日々新聞』 1月26日付 熊本日々新聞社
歳末、たまたま水俣市から水俣病資料館の開館式への招待状が私にまで送られてきた。実は在京の水俣病研究・記録グループの間で、「水俣を遠く離れて…」水俣を思う気持の表明として、いわば大水俣東京展ともいうべき催しを一、二年あとに持ちたいという動きがあり、私もこの資料館の開館をこころ待ちにするひとりであった。それだけにこの機会を心からよろこび、皆にも計り、その気持を託されての旅だった。むろんメモ代りに8ミリビデオを忘れなかった。そして前日に電話で市の公害課に撮影の許可も得た。それゆえ現地で大汗をかく顛末になろうとは思っても見なかった。
式典の全記録は事もなかった。だが水俣病資料館は「市謹製」と形容するほかない重苦しさがあった。なによりも困惑したのは「館内写真撮影禁止」の壁だった。公害課の好意的承諾は館長には伝わっていなかった。それとは知らず撮影していた私は館長に阻止された。そしてのべ四時間の問答と、二日の手間を撮影に要した。あげくに気持のどこかに市謹製の「環境聖地」を汚したような罪悪感さえ背負わされた。
余談ながら、パリのルーブル美術館でもフラッシュは禁止だが、写真、ビデオ撮影は自由である。ヒロシマの平和記念資料館も同様。とくに著作権のあるもの(ここの場合、桑原史成氏の写真や水俣市当局製作の映像など)を商売として複製する場合は作者の許可が要ることは常識中の常識、それは私にも解っている。今は映像学習の時代だ。展示物を再学習するために撮影は許可するのが公共展示の一般の趨勢である。ただしフラッシュは紫外線を出すので、資料の劣化を防ぐために禁止、その眼目はいつに「保存性」にある。
岡田水俣市長の挨拶にも諸当事者、来賓の挨拶にも水俣病の悲劇を繰り返さないための「情報発信」の地として、その役割としての水俣病資料館が熱っぽく語られた。しかし事態は逆である。(市購入済の水俣病映画も誤解のためか、ずっと死蔵されていた)。
話は飛ぶが、昭和四〇年、私は日本テレビのノンフィクション劇場『水俣の子は生きている』を作った。当時、「水俣の子」への募金に起ち上がった熊本短大生の活動として、今回も展示されている桑原氏の写真パネルをもって学生が街頭に出た話題も描いた。だが、善意にせよ氏の胎児性患者の写真パネルはビニールテープでわざわざ目ばりがされていた。私はあえてそのテープを剥がし、写真のままの目を撮った。「現代文明と資本の被害者がなぜ人目を避ける存在とされるのか」と万感の思いがあったのだ。これが私の水俣病映画の出発になった。その思いは今も変らない。またもその悪夢の再現か、水俣病資料館全体が、姿は見せてもその核心は目ばりされてはいないか。私の重苦しさはそこにある。
山中館長によれば、撮影禁止は患者のプライバシーのためという。それは痛いほど分る。その人たちには差別された長い受難の時間があった。患者と市民との直接の交流はこの一、二年前までなかった。だが、誰が患者の心をそこまで追いやったか。今もなお、市の「責任」は形に示されていない。かつてチッソの第一組合が患者を守れなかった歴史を自らに問い、有名な「恥宣言」を天下に公表した。市はなぜ自らその「市史」に学ばないのか。 展示への批評は別の機会にゆずる。ただ意図的な欠落(見舞い金契約前後の事情など)や、国、県、チッソなどの加害責任への指摘、そして被害者の怒りと患者らの運動などがすっぽりと抜けている。展示資料はコピーされたものがやたらに目立った。
それに比べ、改装なった相思社の歴史考証館には、手漕ぎ船や漁具、実験のための猫小屋など分厚い実物展示の蓄積があった。ふたつの館が並んでみて初めて見えてくる中身の質の違いは非情なまでだ。「二つの展示があることはよい。水俣病史を複眼で見よう」(来賓の言葉)とはまさに的を射た言葉だ。ちなみにそれぞれの年間維持経費、市の水俣病資料館の場合三五〇〇万円、歴史考証館はその九分の一の四〇〇万円(ともに担当者の人件費こみ)。この下世話な事情も発信基地水俣の論議に供されてはいかがだろうか。(一九九三・一・一)