水俣を遠く離れて、水俣をみる 『水俣・東京展準備会通信』 (3) 8月1日 水俣東京展準備会 <1993年(平5)>
 水俣を遠く離れて、水俣をみる 『水俣・東京展準備会通信』 (3) 8月1日 水俣東京展準備会

 最近、水俣・東京展への参加・協力をお願いしようとしていた方があいついで亡くなった。朝鮮チッソに詳しかった松岡信夫、東京展での公演を期待した砂田明両氏である。
 こころから惜別の念を禁じえない。展示にその遺志を飾りたいと、謹んで思う。
 水俣病事件関係者も老いには勝てない。それに前後して、かつて水俣病解決を県政の柱にするとした細川藩主の嫡流が新首相候補に、そして、元チッソ社長の直系の孫娘が次代皇后の継承者になった。水俣病事件にまつわる因縁話のひとつに過ぎないかも知れない。この辺境の事件がいまだ解決に至れずにいる事は、国家の権威とそれに繋がる人々の喉もとに刺さった「魚の骨」であるだろう。しかし、伝説のように過去として語られがちだ。
 現地水俣では、水俣病を清算し去ろうという動きが早まっている。補償関係費・数百億円の県債の利子に苦しむチッソへの支援だけが声高い。「チッソを守れ」と、患者を巻き込んだ大合唱が起きている。国家が責任を回避し抜く以上、水俣病補償の体系の維持にはチッソ企業の存続しかない、これを支えることこそ急務だ、認定患者・和解予定患者の補償すら危ういなかで、この上、どうして潜在患者まで救済できるか。そうしたド迫力を感じるほど、市全体が危機感を表している。が、ローカルニュースでしかない。
 水俣湾周辺の「聖地」創造は急ピッチで進められた。まさに土建国家の面目躍如。ヘドロ埋め立て地脇の岬に市立水俣病資料館ができ、埋め立て地での慰霊祭が行事化された。
 その資料館に、申し訳ないが、「何を展示し得なかったか」を見る。国、県の責任、権力、チッソの企業体質の犯罪性には言及しえてない。チッソ工場からの水銀流出のメカニズムが、その現地にも関わらず一向に掴めない。水俣病像も典型例の水俣病と胎児性水俣病に限定することで、不知火海沿岸住民の未認定患者の病像の多様な所在には触れない。つまり長期間にわたり裁判で揉めている争点を回避し、つじつまを合わせているのだ。
 水俣病事件史の展示においても、水俣病患者の裁判闘争や自主交渉といった、世界のひとびとの魂を揺さぶった患者運動の記録はほぼ削除にひとしい。疫学の解説には、水俣病は漁民の魚の信じられないほどの多食によるもの、普通の市民の食べ方とはくらべものにならない、といった意味がつけ加えられている。患者と市民との差異を際立たせたつもりだろうか。だが、これが正直な水俣病行政当局の水俣病表現、と受けとめるほかない。
 われわれは水俣から多くの触発を受けて生きてきた。かつて、東京で「水俣」を思い、水俣生活学校や水俣大学構想にも動いた。水俣のなかに日本が見える、世界の明日への教訓が夥しく堆積しているとの仮託からだった。しかし失敗し、挫折を見た。時の経つにつれ、それは返す刀のように、東京の「水俣観」を問い返してくる。
 今回、患者はじめ事件にかかわった方々の著作、表現、記録を一堂に集めた、いわば「わが水俣病」大博覧会のなかで、さし当たりそこから、被害民の声と言葉をしかと確かめたい。誤解を恐れずにいえば、今日、現地に行ってみても「水俣」は見えない。「見よう」という意思があるかどうかだ。今回の水俣・東京展は東京の「見よう」とする意思で開かれる。引力も魅力も持つ水俣を遠く離れて、東京で水俣病の意味を考えたいのだ。