空間構成「記憶と祈り」の製作にあたって 『告知板』 270号 11月20日号 庄建設
ほぼ二十年まえ、私たち青林舎は記録映画『医学としての水俣病』をつくりました。その第二部「病理・病像編」(武内忠男・元熊大医学部病理学教授ら監修)のアタマ、亡くなられた三十人の患者さんのシーンに、「このかたがたは水俣病の死者百人(昭和四十五年当時)のうちの一部の方に過ぎません。死後、病理解剖された方、四十一人、その剖検(解剖)例から、世界で初めて起きた水俣病の病理研究は、その糸口が開かれました」と述べました。
脳とか細胞とかの破壊を描いたこの映画の主人公が「脳」や「破壊された神経」ではなく、患者さんなのだ、と自分に言い聞かせる気持でそうしました。主役である患者さんの風貌や、年齢・世代、生前の姿、海の匂いのする肖像写真、フィルムはこの映画の冒頭に絶対に必要だったのです。
今度の東京展の場合も、私の『記憶といのり』の発想は同じです。水俣病被害者の死者群像が展示の入り口にデンとある。これらの患者さんの見ている前で水俣病・東京展をやっている…というイメージです。
東京という水俣から遠く離れた日本の首都ですからなおさらです。中央の政治家、官僚にはこの顔々々が見えてはいなかった。それを論じる私たちもまた、とかくそうなりがちでした。
当時、死者はたった百人でした。今は認定された方のうち、死者で千九十人(熊本、鹿児島)、未処分者の死者は四百四十七人、合計千五百人余です。
「いやあ、この人数ではとても手に負えない」と何度も尻込みをしましたが、どう考えても今撮らなければ、そのチャンスは二度とないように思います。
現代の戦争の悲劇や、人類の愚行、過失の記憶のしかたにはいろいろあると思います。米国にはベトナムで戦死したすべての兵士の名を彫った石碑の壁があり、アウシュビッツの犠牲者の髪の毛と入歯や眼鏡の山は鮮烈です。写真展示で知られているのは、カンボジアでポルポト派に虐殺された人々の識別用写真が掲げられていますし、沖縄の「ひめゆり資料館」には死んだ女学生たちの写真があります。即位後、沖縄を訪問した天皇はその資料館にニコニコして入ったが、不意打ちに会ったようにうろたえた、とあるルポにありました。写真の中の少女たちに見つめられた気がしたのでしょう。「写真を見る」、それが逆に「写真から見られた」ことになった一例です。
水俣病患者の肖像収集が今日まで為されなかったことが、水俣病事件の社会的特徴を物語っているのではないでしょうか。
まず、東京展の入り口にこの千人を超える方々の肖像写真を掲げられたとします。そこにある死者群像『記憶といのり』の部屋を通り、次から、多彩な展示、催し物、物産展、交流の広場に足を向けて頂いたら、展示の観賞も深まり、より人間的な感受性をもって歴史を振り返っていただけるのではないでしょうか。
そのスペースを私はかりに『記憶といのり』と名づけて見ました。お寺でいえば、山門の五百羅漢みたいなものかもしれません。
よく一言で「犠牲者、何百とか、何千」とかいいます。数字だけがひとり歩きし、患者の顔々の記憶は薄れ、数字だけ残るのは喜劇です。しかし、初心に、「信じられないほどいっぱいの犠牲者の顔を見た」としたら、その記憶は残るに違いありません。まえに挙げた世界の悲劇の記憶の仕方から学び、水俣・東京展を作りたいと考える次第です。とはいっても自信があるわけではありません。
この仕事にはいくつかの困難が予想されます。まず名簿を手にいれる難しさがあります。また患者・支援者グループが分断されてきた経過もあります。写真などない人もいましょう。匿名希望の遺族がおられる事も予想できます。それはそのまま出して行くつもりです。その愛用品や遺品でもいいし、その方の見ていた風景に“匿名を希望”と付記することもありそうです。要は、全死者を辿った結果、、千五百人分の集積がパネルに残れば、後日、さらに完成にむけ努力できます。
『記憶といのり』には完成がなく、ヒロシマ原爆忌のように、年々追加されていくものかもしれません。
ともあれ、秋から、水俣で写真探しや複写作業にかかります。現地常勤スタッフに患者さんの参加も予定しています。“鎮魂”より前に「まず記憶せよ!」が今の私たちの心境です。どうぞご協力をお願いします。
土本典昭・青木基子(水俣・東京展実行委員会)