私の「水俣の手帳」をたどって 水俣・東京展「記憶と祈り」・肖像収集のたび 『熊本日々新聞』 12月6日付 熊本日々新聞社
千人をこえる水俣病物故者の遺影を求めて水俣にきてからのこの二十日間、私の仕事は亡くなったかたがたのお名前を調べること、それを一戸一戸、住民地図に移しかえることだった。一部一万五千円もするゼンリン住宅地図を買って、認定患者宅と亡くなられた家を色分けして塗って見ると、一つの漁家部落がほぼ全滅という図になる。今さらのように有機水銀の冒した現実を見る。
「もう忘れようとしているのに、なんで今さら水俣病の悲劇を並べるのか?」といった声も予想していた。が、水俣病の関係者はこの遺影の収集と展示の計画に、しずかで落ち着いた答えかたをしてくれる。「全犠牲者が慰霊の明るみに出されたことはまだない」と。
この十一月六日の「火のまつり」の夜、埋め立て地の無数の松明の明りに照らされた夕闇は私の仕事の幕開けに相応しかった。「生きている人間が大切なことはたしかよ。しかし死んだ人のことも忘れてはくるるな」と霊の姿で語った杉本栄子さんの声は、私の「死者肖像を世界の人々に残したい」という気持にも灯明を点じてくれるものだった。
話はとぶが、むかしフランス映画で『舞踏会の手帳』という名画があった。そういうだけで年齢がバレてしまうが。それはパリの社交界のお嬢さんが、かつて自分に愛をささやいた紳士がたを、その二十年後、ひとりひとり訪ねるといったドラマだった。マリ・ベルという女優が娘ざかりの思い出を秘めて会う男たちにも、その歳月が流れ、幻滅や驚き、そして、深みのある人間になっていたことに感動し、人生をかみしめるという、香気に満ちた名作であった。五十年前の映画である。それと私の水俣病患者の亡くなったかたを訪ねる話とどこでつながるか。じつは私は毎日驚きと感動を受けながら、しきりにこのドラマと同じ寓意を水俣再訪に感じているからだ。たとえば今日もそうだった。
水俣病の初発期、熊本大学の研究班の映画フィルムに映っている小児患者Eさんの家で、高校生になったふたりの息子のスポーツマンらしい写真スナップを見せられた。かつて支援者の娘さんだったMさんにも二十年余の歳月が流れた。いまは母親として誇らしい気持を隠さない。そのこどもの成長を綴っている写真アルバムにあるEさんも、言語障害や運動失調に悩まされながら、だんだんに父親の風貌に変化している。そしてかれは奥さんの子供の話、就職決定の話にあいづちをうちながら微笑んでいる。その歳月を考える。
今回の患者さん宅の家庭訪問は再来年の水俣・東京展で掲げられる遺影パネルのための写真の収集の仕事ではじめたものだ。これまで毎年のように水俣に足を運んでいたものの、こんなに時間をとって各患者に会うのはじつに二十年、三十年ぶりのことである。
この現地スタッフとして、そのむかし水俣の映画を撮りはじめたころ小学生だった渡辺栄一君と一緒に仕事をしてみて、運転や撮影助手として頼りになった。かれは試験用紙の漢字に弱い。四十歳を過ぎ、運転免許の学科試験に二十回目でやっと通ったときいて、その根性にいわば呆れた。予想以上に勘は良いし、安全運転を心得ていた。頼んだ当人の私が密かに舌をまいている。やはり小児性水俣病患者だ。日に一度、電気バリ治療に通いながらの勤務だが。
彼の実家でやはり患者さんである姉の生れたての初孫に会った。綺麗な目をした元気な赤ちゃんだった。また出水の患者さんの家で、ヤンチャ盛りの初孫にあったときもそうだが、水俣病が生んだ誤解のうち「遺伝する」という風評ほど、患者や水俣出身の人々に実害をもたらしたものはない。胎児性水俣病は母親の妊娠中に食べた有機水銀の魚による食中毒であり、その原因物質を放出したチッソはその毒性を知りながら放置したことは、いまや社会の常識となっているはずだ。が「遺伝する」という誤解の根は拭われていない。それらの誤解に悩み、差別に耐えながらも、普通に赤ちゃんを生み、普通のお母さん、おばあさんらしい世話をやいている患者たちの生活に感じいるものがある。もし毒物中毒としての水俣病が市民レベルの医学・衛生の常識になっていたら、患者の精神的な苦しみはさらに軽かったにちがいない。私にはこれらの赤ちゃんたちは水俣病の偏見を砕いた“水俣の宝子”に見えるのだ。水俣が変わっていきつつあるのか、私が変わったのか。ともあれ私たちの死者肖像を訪ねる旅が生きている人々と出会うことでありたいと思っている。
(一九九四・一一・二六)