書評 映画のもうひとつの深層海流を探る 鈴木志郎康著『映画素志ー自主ドキュメンタリー映画私見ー』 (現代書館)共同通信社配信 <1994年(平6)>
 書評 映画のもうひとつの深層海流を探る 鈴木志郎康著『映画素志ー自主ドキュメンタリー映画私見ー』 (現代書館)共同通信社配信

 ドキュメンタリー・記録映画の評論家はごく限られている。映画紹介やテーマの解説に添えて、やや高い評価をし「一見の価値」があるというのがパターンである。記録映画を見、時間をかけて分析しても、原稿依頼は少なく、原稿料も恵まれない。例えば、この著書の各論の初出は映画技術専門誌やマイナーの定期印刷物へのタダ働き同然の連載が多い。にも関わらず、鈴木志郎康のドキュメンタリー論は一部に深く知られていた。それは氏のデビューが詩人としての「H氏賞」受賞者としてであり、同時に、生活者としてはNHKのカメラマンでもあったというマルチな才能からだけではない。七〇年前後から「個人」映画を試作し、さらにフリーになってもっぱら詩作と映画作りとドキュメンタリー批評に専念するといった氏の視座からの発言は、ドキュメンタリー作家たちにとって、「こわい」存在であったし、それぞれの「作品の位置確認」に無くてはならないものになっていた。
 同じ記録映画について、劇映画の評論家の用いる批評の方法と、氏の味賞し分析する仕方とは、全く趣きが違う。いまもカメラを持って思考する「現役カメラマン」の感性から、フィルムの意味、そのスタッフの思想を読み取る点で、その経験を持ちえない批評家には及びもつかないものがあるのは当然であろう。それに加えて、詩人の意識に選別された厳しさ、つまりごまかしの表現を見過ごせない眼があるのだ。「こわかった」のはそこだ。
 氏の映画論は作家たちの指標であった…この本の出版を望んだのが、他ならぬ現場の若い作家だったという消息(あとがき)も納得できる。ホメ言葉のない文章にしても、だ。
 一九三〇年代のヨリス・イヴェンスらから、戦中・戦後の記録映画の先行者、亀井文夫、野田真吉、今も健在な柳沢寿男から小川紳介・土本典昭の時代、さらはその後の原一男、山邨伸貴、小池征人、西山正啓らの世代にいたる、いわば現代映画史的な展望の見え方が読後に残る。また、精選された巻末の「ドキュメンタリー映画史年表」は、これからの映画愛好家に貴重な手引きともなろう。