水俣・「記憶と祈り」・遺影収集報告94・11 『告知板』 272号 1月20日号 庄建設 <1995年(平7)>
 水俣・「記憶と祈り」・遺影収集報告94・11 『告知板』 272号 1月20日号 庄建設

 水俣に来て三週間になる。着いた十一月四日から三日間、行事『環境ふれあい・イン・水俣』があり、さっそくビデオを回した。「市民の集い」では、水俣病センター相思社の吉永氏が、いままでお互いに相性の悪かった「被害者の会」事務局の増田さんと共同で司会していた。アレ!と思う。路線云々より、運動組織として別々の趣があったからだ。
 今年五月、慰霊祭で患者にはじめてお詫びをした吉井正澄市長は「水俣病によって引き起こされた社会的な市民の間の亀裂の修復」をよびかけ、主婦の開田さんは『水俣の啓示』(不知火海総合調査団報告)を読んではじめて自分の祖父の水俣病を理解したと発言した。
 最終日の夕暮れ、埋め立て地の海辺で火の祭りがあった。患者のひとり、イリコ漁の網元杉本栄子さんの祈りの言葉が踊る竹人形を背景に語られた。彼女の手にした巻紙は数メートルに及ぶもの、白装束で身なりを整えたその朗誦は海のよごれから生き物の死、そしてひとびとの狂い死に及ぶ追想から、転調して鎮魂に集まったひとびとに「ありがとう」をくりかえし、そして最後に離郷者にむけて「どうぞ水俣に帰ってきてくださーい」とむすんだ。この数分の祈りのために、彼女は数日まえ、それまで胸が痛んで見たくもなかったヘドロの埋立て地に立ち、気持を鎮めたという。いかにも彼女らしい事の運びがあった。
 火まつりの松明は百本を超えたのではなかろうか。その竹材の切りだしには水俣の山の衆が汗を流した。全体の裏方を勤めた市の職員吉本氏は「水俣市に地殻変動が起きた」という。その祭事、火まつりの場所は、昨年来、患者さんらが野仏を置きたいと願っている格好の場所でもある。そうした野仏の置かれた海辺の夜を想像させる力があった。
 水俣は水俣病問題を直視しないでは先に進めないことを自覚したのか、水俣病資料舘では浜元二徳氏を患者の語り部として招いている。以前には考えられなかった状況だ。ここまでくるのに四十年かかった!
 患者は水俣病の記憶を残すことに生きがいを感じている。
 一方、「水俣病の幕引きか」との声がないでもない。私たちの千人をこえる水俣病犠牲者の遺影収集もその一環ではないかとも。かりにそうであっても今しか遺影を集めるタイミングはないというのが私。さ来年の水俣・東京展がこの企画の契機であり、水俣病その四十年が重なっている。その点では誰も異論はない。この一見矛盾した対応こそ水俣らしいというべきか。「生きているひとびとが大切よ。じゃが死んだひとびとのことも忘れてくるるな」という杉本栄子さんの祈りの一節は、いまの私たちに語られた気がする。
 八年前、『水俣病-その30年』という映画を作ったとき、「この30年間に水俣のどこにもついに一つの慰霊碑すら建立されなかったことの異常さ、不可思議さ」と述べた。その時は、日航ジャンボ機の墜落による死者 520人の慰霊碑が一年後に群馬県御巣鷹山の頂きにつくられたことから水俣を見た感慨だった。今回は先頃の中華航空機事故(名古屋)である。事件ご二日にして百人を超える犠牲者全員の顔写真が中部地方の各紙に掲載された。その迅速な報道力をもってしたら、40年間に千百人余の水俣病受難者の肖像が残されなかったはずはない。この水俣病事件の特異さは何か。さきに述べた水俣市の慰霊祭は、総数のみで個別の戒名の表記もなかった。チッソは「患者のプライバシー」として、死者名簿については沈黙している。だがここにしか完全な記録はないことは今回、はっきりした。
 さて、物故者の所在確認に青木基子と聞き歩き、宿に帰ってそれを住宅地図に写し替えているが、数字で「何々集落何十名」というのと全く違い、色で染めた一戸一戸、そこに書かれている戸主名を塗り潰していくと茫然となる。平面の地図の点描だけでこれだけ“消耗”するのだから、各戸訪問と個別の要請には新手のネジリ鉢巻きが要りそうだ。
 患者の大半は素直にこの企画を受け入れ、記憶を辿ってくれる。だが、名前はウロ覚え、ましてその位牌や遺影がどの子の家にあるかとなるとさらに不確かだ。なにしろ四十年の歳月は容赦なく忘却を強いている。遅きに失したか、まだ間に合うかはこれから次第だ。
 一方、同じ集落に多くの未認定患者がいる。その重層性がいやおうなく迫ってくる。