急いても仕方がないの記 『熊本日々新聞』 4月5日付 熊本日々新聞社
来年夏に開くことになった水俣・東京展の第一室に掲げる水俣病犠牲者の死者群像「記憶といのり」の展示製作のため、水俣に来てからアッという間に五か月経った。千百人を超える熊本水俣病の死者の遺影を撮るのにとりあえず一年間を予定したが、いまだ月浦、出月、湯堂、茂道など多発地帯の死者を撮り終わっていない。それでも三桁の遺影は収集した。「まだたったそれだけや」とある患者にいわれるが、「これは十年仕事ですねえ」と苦笑する一方、心急いても仕方がない事情も思うのだ。
告白すれば、この遺影収集を東京で考えた当時、犠牲物故者の名前くらいは市民に明らかにされていると思っていた。水俣に関する新聞の切抜きに永く親しんできた私には、昭和四十三年、国(厚生省)の公式発表直後の慰霊祭の写真入り記事の印象が残っている。そこには患者の遺影、位牌が全て奉られていた。また、裁判や座り込みの場に、遺族の手に遺影が抱えられ、それが無言の訴えを周囲に及ぼしたことも忘れられない。たとえ名前は忘れても、存在(人間)としての顔かたちは忘れないという経験則も学んだ。
この三年前に埋立て地での慰霊式が復活した頃から、水俣・東京展の胎動ははじまったが、その慰霊式は遺影収集の発想を促した。つまり、公然と被害者群像を慰霊することが出来る時代が水俣にも到来したと思ったのだ。
多少でも水俣に関わったものとして、遺影を集めることの困難さを予期しなかったわけではない。遺族のなかには、「見せ物にできるか」と拒む方、世代も代わり、水俣病に関わりを持ちたくない家もあろう。一軒一軒お断りしながら、その趣旨を話して個別訪問することを原則にし、プライバシーは個々に保証すること。遺影提供を固辞された場合は遺品や周辺の風物をもって代えるつもりだった。匿名でもいいとさえ考えた。だが慰霊式の対象である死者全員の名が伏せらたまま催されたとは思はなかった。たしかに市立水俣病資料館にも「プライバシー保護のため」個人名は出さない旨の張り紙がある。
水俣に来てから、死者名簿について協力を求め、チッソ水俣本部をはじめ、熊本県庁、水俣市役所、被害地域の市町村当局、さらに国立水俣病研究センターを訪ねた。患者団体、そして支援者団体はいうまでもない。結局、相思社や古い支援者に助けられたが。
やがて死者に関する原簿は加害者チッソにしかないことが分かった。各市町村自治体はチッソの連絡によって記帳している。県庁を表敬訪問した際、要路の人は、「しかし、たいへんなことをはじめたですなあ」と同情すら見せた。が、県も国も水俣病の死者には関知していない。熊本県当局は「認定業務部分を担当している。だから、申請時から認定までの患者の記録はあるが、その死亡者については記録がない。民法上、相手側への表弔義務などのあるチッソしか持っていない」という。そのチッソ会社は「当方は加害者だ。患者のプライバシーを守る立場だから」と、ひとりの死亡者の名も口にしなかった。ご立派というか、あとを継ぐ言葉もない。そのチッソはもっぱら患者各派の意向次第という。言われるまでもなく、患者各派に当たった。「それは良いことだから」と賛成して協力的な派が多かったが、代表が「わしの口からは断じて言えん」という派もあった。
この年末年始にかけて“新聞切抜きのプロ”を自認する助手、青木基子と一緒に、二十五年分の新聞の患者の死亡記事を当り、数百人分を記述を探し得た。それに支援者、患者からの聞き書きを加え、独自の名簿を作りつつある。「まだ撮れたのはこれだけや」といわれるが、私たちには物故者全容の七割がようやく見えた段階なのである。
このところ、多発地帯の家々は甘夏みかんの収穫に追われて、留守がちであった。戸主(遺族)が長期入院していて空家同然の家もある。だが、歩くと些細なことにも感じ入る。どの家も仏前には季節の果物や菓子のお供えがあり、その朝に点じた灯明と香の匂いが漂っている。ときに遺族から「供養は我が家で十分にしているから、もう“慰霊”はヨカです」と断られる。一方、「死んだものの慰霊なら、だれも文句はなかろうもん」と励ます患者や、私たちの訪れを待っていた様子の遺族も少なくない。「お父さん、行けなかった東京じゃもん、写真でなと行ってこんな」と遺影に語りかける優しさには泣かされた。
じつは撮影と物故者のリスト作りと並行しながら、折りをみてはビデオを回している。
夕日の海が美しいとカメラを据え、記録映画作家に早変わりする。遺影集めは気の疲れる仕事、そのバランスを取りたくなるのか、カメラを水俣の風景に向けて、我を忘れる時を持つ。日々の発見がある。いつか『私の水俣日記』のような映画をまとめたいものだ。