恥が覆う惨苦の歴史 『朝日新聞』 10月19日付 朝日新聞社
今、私は来年秋に開催予定の水俣・東京展に展示する水俣病犠牲者の遺影を集めるため、助手とふたりで不知火海沿岸漁村の遺族宅を訪ねている。遺族のほぼ全員が水俣病患者であるか、その棄却者であった。遺影集めのかたわら話を聴く。
三、四十年前の不知火海の汚染のすさまじさは想像を絶する。三十二年間、水俣を離れ、東京生活をしていたご主人は、遺影を撮らせながら、「海は、もう許しておるですよ」と家の前の梅戸の浜に私たちを案内し、石を起こしてカキ、ビナの群生を見せてくれる。私の知らない往時の海…変色し、化学臭が漂っていた頃の記憶があっての上であろう。
ひとびとは現在、進行中の“最終的解決”の話には口が重いが、猫の変死や狂いまわりの話には饒舌になる。そのネコ分布図が患者の所在と全く重なっている。たとえ山間の農家であっても、嫁の実家が漁家であり、魚はいつもそこから貰っていた。「死んだとは何匹か」。飼いネコがそこの藁小屋で死骸をさらしていたという昔の出来ごとが昨日のことのように語られる。ネコに“ニセ患者”はない、と改めて思う。
この取材の一年の後半、政府による水俣病問題の全面解決の動きが急展開してきた。あたかも時間制限つきの将棋戦のよう強引な詰めだった。十数年前から、未認定患者らは「死ぬまで待てというのか」と口にしだした。その通りになった。認定の気の遠くなるような時間のかかり方に抗議し、いわゆる待たせ賃裁判を起こしたが、原告(申請者)の勝訴にもかかわらず、最高裁で差し戻され、十数年経ってもラチがあかない。この二十年ほどの間、水俣病事件の時間操作は専ら権力側が握った。被害者の側は泣かされつづけた。
八月末、水俣病事件史上はじめて、水俣現地で環境庁官僚と被害者五団体との協議が持たれた。その説明にあたった官僚は、患者にとってはわが子に等しい世代だった。歴史的重任に上気した若い官僚に、ある患者は聞いた「あんたお幾つかな」。環境庁の保健企画課長は昭和三十四年生まれと答えた。それは水俣病患者ならあの屈辱的な見舞金契約、不知火海漁民の抗議行動が沸き起こった忘れ難い年なのだ。患者は一斉に憐憫の情を浮かべた。五年前、北川石松環境庁長官の時代、水俣問題を担当していた企画調整局長山内豊徳氏が患者と政府との板挟みになって自殺した事件が、かれらの脳裏に去来したのだろうか。官僚は若手に代がわりしたが、患者たちにはそれが出来ない。
被害者らの我慢はその限度をとうの昔に越えていた。その間、重なる医療費の工面と身内への気がねなどから、家族の絆すらボロボロになるほどだった。疼きや痙攣、頭痛などこみあげる悲鳴を、みずから口を覆って塞いできた。さらに家族への自衛策として、水俣病被害者のレッテルから身を隠す努力も含まれていた。息子の嫁や孫にも自分の“秘密”を隠すことが習いとなった。その習性は四半世紀にも及び、こころの底の岩盤層になっていた。そこから立ち上ぼる黒い靄が水俣、およびその周辺汚染地域全体を覆っている。
こころのなかの水俣病について、水俣の新らしい市長吉井正澄氏はこれを公然と認めた。いわば市の「恥」宣言であったろう。そこから年一年と変化の芽が見えてきた。
だが、水俣病事件ほど節目節目ごとに、恥ずかしさが先立つ事件はない。たとえば、世界の環境汚染の原点「ミナマタ」を語るにあたって、“水俣病患者”とは、どの範囲を指すか…これからはその説明すら難しくなった。戦後五十年、アジアの従軍慰安婦問題の詳報を聞く時、足元から這い上がる羞恥と同じ質の「日本の恥」がある。これは再燃、必至である。半世紀かかっても「今日の恥」である。
数千の水俣病棄却者を“水俣病患者”に加え、政府が明確に非を認めるならば、水俣に新鮮な風が吹きはじめるだろう。それが国のせめてもの償いではないか。被害者はすべての虚構を見据えている。各戸に天皇の肖像があり、出征兵士の門札もいまだに残されている。過去は過去、現在は現在として生きることを慈しむ家々を見る。この惨苦の日々を生きた水俣病被害者が証しを隠すことは、決してかれらの本意ではないと思う。遺影を撮って残す意味はそこにあるつもりでいる。