記録映画の源流を手渡して頂いた……ー瀬川順一さんを偲んでー ユニ通信 10月25日 ユニ通信社 <1995年(平7)>
 記録映画の源流を手渡して頂いた……ー瀬川順一さんを偲んでー ユニ通信 10月25日 ユニ通信社
 
 瀬川さんの訃報はかねてから覚悟していました。昨年十月、水俣での一年間の仕事…水俣病犠牲者の遺影集めのためにこの地に来る前、瀬川さん宅に伺いました。すでに氏は肺癌と知り、残り時間を計っているようでした。私は二度ほど帰京し、お話しに伺いました。この七月が最後の別れとなりました。その折、話の途中、咳き込むたびに拭うティシューは紅色に染りました。が、平然と話を続けておられた。
 離島での取材中、氏の死去を知りました。静謐な家族たちに見守られ「僕は幸せだった」と、眠るように息を引き取られたと聞き、「さすが瀬川さんだ」と安らぎすら覚えました。死者に出会う旅をしているうちに、あの世とこの世の境が曖昧になっているからかも知れません。
 瀬川さんをご存じの方なら、氏が亀井文夫監督の『戦ふ兵隊』のキャメラマン、三木茂氏の助手だった時の強烈な体験をお聞きになったことがあるでしょう。
 五十七年前、十五年(日中)戦争当時、砲声の響く農村(中国)で見付けた子供たちを撮ろうとしてキャメラを据えた。が、逃げられそうになると、亀井監督は怯えて泣きだした子供を羽がい締めにし、「これを撮してよ」と言われた。しかし、三木キャメラマンはかたくなに撮るのを拒んだ。ついに撮れなかったその夜、果てしない激論がふたりの間で交わされた、というものです。それは「映画テレビ技術」誌(94年12月号)の瀬川順一・懇談録「とりとめなく真なるものへ」の一章「『戦ふ兵隊』のこと」に驚くべき精密さで採録されています。氏の「キャメラマン論」として、後あとに残るものでしょう。
 当時、戦争中の戦意高揚のニュース映画の氾濫する中、その類いの話は忘れられ、見過ごされたでしょう。しかし、瀬川さんは違いました。四十年近く前、私が始めて八幡製鉄所(現新日鉄)のPR映画の現場進行として映画に足を踏み入れた日から、最後までこの話が続いたのです。自問自答というか、氏のこだわりが持続した事自体、凄まじいものでした。前記の懇談録にない言葉が最後に出ました。「やはり亀井さんはあのときは加害者側だった」と。氏は伏し目ながら、ホッと重荷を下ろした顔になりました。戦争における加害者と被害者というテーマを映画の人間として解かれたなと、私には思えました

 亀井監督と三木キャメラマンのその葛藤は、戦時中ゆえ不発に終わりましたが、ドキュメンタリーに魅せられた若き日の瀬川さんらを巻き込んだ映画論「キャメラマン・ルーペ論争」となったと聞きます。私は「演出家と横並びの作家性がキャメラマンにはある」という風に、三木さんのその論を理解しています。その流れを現在の“キャメラマン論”に蘇生されたのが瀬川さんでした。では、何処がそうか。
 氏は「三木さんのようにNOといえる、独立した思考と個性を持ったキャメラマンであれ」「自分の映画だ、映画を『僕が私有する』といいきれる映画的表現を」ということでした。
 私にも言いたい放題、「ドロちゃん(私のこと)は“闘うドキュメンタリー”だけしか眼中にないかも知れないが、映画にはそれを超える芸術性があるんだ」「レンズを覗いて見る、ブルブルするような感動は、キャメラマンの僕しか味わえない」と。そして渾身の“技能(氏の言葉)”を仕事に注ぎ込まれました。
 氏は、私が学生時代に、“日本の洋画”のようにウットリと魅せられたあの『銀嶺の果て』や『ジャコ萬と鉄』への感想にはあまり乗らず、話はもっぱら自由なキャメラについて、つまり私にとってはドキュメンタリーと、その源流についてでした。
 思えば、『留学生チュア・スイ・リン』、『水俣の図・物語』、そして『海とお月さまたち』は瀬川さんとの映画論の延べ時間から見れば、一瞬の時の共有だったと思います。
 この九月、台風が九州を襲った夜、氏から安否を気遣う電話がありました。その最後に「あの『奈緒ちゃん』のキャメラなあ、あれいいと思うよ」と、まだ氏の最後の作品を見ていない私にシャイな声で付言されました。「そうでしょうとも」と答えながら、「また楽しみが残された」とこみあげるものがありました。映画ある限り、どうして瀬川順一さんを忘れ得ましょうか。
 95,10,25