水俣病犠牲者をたずねる旅 NHK国際放送原稿 <1995年(平7)>
 水俣病犠牲者をたずねる旅 NHK国際放送原稿

 話の構成

 1、私の水俣病の旅、その歩きの動機
 2、遺影集めの発想は遺霊への鎮魂だけだったか
 3、水俣病隠しとその精神的風土
 4、未来にむけての水俣の姿とその胎動
 5、むすび

 1、私の水俣病の旅、その歩きの動機。
 
 私はちょうど三十年前に水俣病患者に出会いました。それ以来、つかず離れず、事件の進行と行方に付き合ってきました。最近では、水俣病の犠牲者の肖像を集める仕事で一年間、不知火海の漁村を歩いてきました。水俣・東京展という、事件後はじめての首都東京での総合展示のために企画したものです。水俣・東京展とはいうものの、内実は東京にとどまらないで日本展であり、世界展の糸口にしたいという気持で始めています。
 私の仕事は映像による記録が目的です。それには旅をすることがその中身になります。文学や医学論文や社会学調査と違います。その人間と出会うことからしか始まりません。
 その出会い方はいろいろです。私の場合、水俣病が水俣湾周辺に多発した昭和三十年代よりずっと遅れ、記録の山場は昭和四十年代後半、千九百七十年代です。水俣病の公式発見から十五年後でした。そしてその頃から水俣病が水俣市の限られた水域の有機水銀中毒事件に止まってはいなかったことが、あきらかになった時期でもありました。後に「不知火海水俣病」という言葉を使わなければ適当ではないと思うほど、水俣病患者が内海の不知火海の全域、とくに天草にまで広がっていることが過去の研究データの発掘によって明かになっていました。ですから、私の関心は水俣やその周辺の漁村だけではなく、はるかなる対岸天草や離島の水俣病被害者に会うことが課題になりました。この十五年、水俣病を追って津々浦々に足をのばすという機会に恵まれ、私の水俣病を見る視点になりました。今回、千二百人とも言われる水俣病の死者を肖像探しのかたちで訪ねるようになったのも、その体験があってのことで、土地感と人脈がこの企画の適任者は私だなと思わせたのです。今までに撮影できた死者肖像は五百人です。企画は失敗だったのかどうか、その数字の持つ意味をどうとらえるかはあとで触れたいと思います。

 2、遺影集めの発想は遺霊への鎮魂だけだったか
 
 私のはじめて作品は一九六五年に作った胎児性水俣病患者についてのTVドキュメンタリーでした。十数年後に成人に達したかれらを描く『わが町・わが青春』という作品を作りましたが、水俣病の記録のスタートに胎児性患者を描いて来たことで、私はこの事件に付き合うある時間を、彼等の一生に合わせて考えるようになりました。そのかれらもすでに中年になりました。来年、水俣病の公式発見から四十年、有機水銀の最汚染期に自分の手と口で魚を食べた成人患者はもうばたばたと死んでいきます。水俣病事件の解決策なるものが、いわば大人の世代の死亡までの残る十年、十五年を目安に組まれていることはこの間の政治的解決の推移を見れば明かです。やがて水俣病事件の生き証人はかれら胎児性患者しか生き残らなくなるでしょう。ではこの悲劇の証人はだれなのか、二十年後、五十年後を考えると、せめて犠牲者の肖像の群像が残されたらと誰でも考えるでしょう。
 「無名の人はあっても、顔のない人はいない」。これは二十世紀が写真や映像の時代とするなら、一番いい方法でもあります。世界大戦中のアウシュビッツなどのユダヤ人虐殺や、ちかくはカンボジャの大量殺戮の犠牲者は写真、肖像で残されています。それもヒントでした。

 3、水俣病隠しとその精神的風土

 話は飛びますが、遺影集めに着手してみてぶつかった壁は、そもそも犠牲者の所在が分からないという現実でした。ちなみに私が水俣病を最初に映画に撮ったころの死者数は約四十人でした。しかも公表され、慰霊祭には遺影や位牌が祭られたこともありました。それが千人を超えていることについての大変さは覚悟のうちでした。撮影を断られる場合も予想していました。が、最近の水俣市の慰霊式の復活や市立の水俣病資料館の建設といった時代の流れを見ていた私は、生きている患者にはさしさわりがあっても死者については別格の取扱いがあり、その慰霊の名簿は当然どこかにあるものと思っていました。
 東京からではラチは明かないから、すべては水俣に腰を据えてから、それを頂こう程度に思っていました。そこで熊本県庁、水俣市役所、国立水俣病研究センターなどの公的機関はもとより、患者団体や支援組織にいたるまで歩き回りましたが、死者リストの揃ったものはなかったのです。一方、プライバシー保護の観点から、かりにあっても公表できないという法の壁もありました。結局、完全なリストは被害者に民法上の補償義務を課せられた企業側のチッソにしかなく、それはいわば門外不出でした。どこも総論賛成、各論非協力というか、患者団体もまわりましたが、いわば最大の患者団体からは拒否され、計画ははなから挫折、というか、思わぬ落とし穴に落ちてしましました。
 結局、一年かかって九百人近い氏名を割り出し、個別訪問を重ねて、その半数の肖像を得たに止まりました。うち、辞退されたケースは百六十に上ります。この辞退のなかに水俣病問題の特色は色濃くあることを思い知らされました。
 平和な時代の事件ですから、遺影はどの家にもあります。「うちでちゃんと祭ってありますから」というのは本当です。が、それは「一家の恥をいまさら、さらすことはない」。つまり、それだけ辱められ、差別され、悪口を言われた水俣病の経過があったからです。
 水俣病は本人申請主義といって、名乗り出ることが前提です。申請したら「それまでして補償金が欲しいか」といわれ、棄却されれば「やっぱりニセ患者だった」といわれる。認定されれば、たかられ、毟られ、いわゆる平穏や安堵感はなかったようです。「うちは見逃してくれなさらんか」と手を合わせられて、こちらが無情な仕打ちをいているのではないかと、この仕事を放棄しようかと思ったことさえありました。
 しかし、多くの遺族は私がこの辺境の家までくるものやらという半信半疑で待る風でした。試していたのかもしれません。「東京で招魂式をしてくれる」という喜びに似たふれこみをして回る人、招魂とはお国のために戦死した兵士の魂を招くという靖国神社の言葉ですが…。「やっと東京のひとが水俣病で死んだ親たち子供たちを祭ってくれるのか」というのです。遺影を差し出すひとが、断るひとの三倍もあったのです。「もうあんなことはわしたちで沢山!」という心情が、このように明暗、二つの気持を残していたのです。

 4、未来にむけての水俣の姿とその胎動

 水俣病は人類の歴史にほとんどなかった病気です。「ノーモア水俣」と叫ばれますが、最近ではアマゾンの水銀汚染のように、さらに「ワンモア水俣」を重ねている予感がします。
 近頃、水俣ではいかに患者の受難を後のひとに残すかということを、患者自身が考えるようになりました。例えば、かつてのヘドロの埋め立て地に石の地蔵を、被害者の数だけ建立してはどうか。石なら残る、魂が残るという発想です。それは自分たちが死んだあと、その後に生きるものへ自分の証しとして残したいという気持なのです。それが水俣病事件を生き抜いた少数の患者の気持の集約的な希望となって、ささやかな運動が芽生えてきました。この運動に胎児性水俣病患者が声なき声で参加し、共感したことも印象的でした。五十年百年先、いわば「死後でも訴えられそうだ」という生き生きした動きなのです。

 5、むすび
 
 「記憶は民衆の武器足り得る」とはさまざまな逆境のなかから生まれた知恵に思えます。地蔵建立も遺影群像の展示も同じです。水俣病かくしを強いて来た水俣病の歴史への異議申し立てが動機だったかも知れません。しかし、それを超えて受難を教訓に代えて成仏したいという犠牲者たちの未来への遺産として残されれば、事件にひとすじの救いが見えてきます。私は信心のないものですが、この旅で死者群像から何か未来に繋がるものを託されたと思っているところです。