とりあえず遺影集めを終えて 東京展用 <1995年(平7)>
 とりあえず遺影集めを終えて 東京展用

 水俣病犠牲者の遺影集めに予定した一年はあっと言う間に使い果たしました。その間、約九百人の死者名簿を作り、うち、五百人に近い肖像を頂きました。もれを残しましたが、熊本県の水俣病多発地帯と離島の御所浦島、鹿児島県の獅子島(東町)はくまなく回ったことになります。この間、多くの患者、支援者、医学関係者、そして市や町の担当者にお世話になりました。こころからお礼申し上げます。
 「今度の遺影集めは先触れのようなものでした」と帰り間際に、親しい方々には申しました。また水俣市長には「十年さきには全患者の遺影を集められるでしょう」と楽天的にお話して帰京しましたが、その感触は今も変りません。
 面会できた七百遺族のうち、承諾と辞退の比率は三対一でした。よくも撮らせていだだいたものです。つまり「東京の人間」として歩いただけに、そう思います。
 しかし、今回、患者団体の各派の人脈を通しての収集がでたら、事情は変っていたと思います。遺族からは「そうして来れば、この辺り(数十遺族)を全部集めるのにわしなら四、五日で済むとに」(ある会の世話人)と助言されました。また「なんで“派”のトップから話をつけんのだ」(別の派の世話人代表)といわれ、私が「二十数派もあったんじゃ、無理ですよ」と答えると、破顔一笑、「そりゃそうだ」と、近隣の死者家庭を教えてくれたりしました。さらに離島では、“派”も“人脈”も飛び越えて、「東京で慰霊祭をやってくれるというんだから」「こりゃ招魂たい!」と、呆気にとられる私たちを一軒々々引き回して短時日に収集できるよう骨を折ってくれました。今度の私たちの遺影集めを、全犠牲者の鎮魂の「先触れ」とするのも、こうした人情の端ばしを見聞したからです。
 水俣では私たちに代り、芥川仁氏らが撮り漏らした遺影集めを引き継いでくれました。
 さて、来る水俣・東京展の中心に置かれる遺影群像が、改めてどんな訴えの力を持つか。どんな祈りの空間を作るかは私の予想を超えるものがあります。しかし、昨年、遺影あつめにあたり、「水俣病の死者の鎮魂に先立ち、まず記憶せよ、そして祈れ」とのべた趣旨の幾許かは実現することができました。改めて感謝の意を表したいと思います。
 (1995,11,29)