水俣の蘇りとは、人の蘇りを観ることだ 『色川大吉著作集』 栞 筑摩書房 <1996年(平8)>
 水俣の蘇りとは、人の蘇りを観ることだ 『色川大吉著作集』 栞 筑摩書房 

 表題の言葉は、私にとって、色川大吉氏からじかに聞いて以来、忘れられない。それは不知火海総合学術調査団の現地調査の三・四年目頃の発言だった。この言葉は水俣にかかわる私にとって、いまも最高のアジテーションであり続けている。
 その訳をう回しながら説明させて頂きたい。
 石牟礼道子さんが鶴見和子さん・市井三郎氏やその「同志」・筑摩書房『思想の冒険』の執筆者たちに、水俣病事件史から社会科学、医学、自然科学を網羅した総合学術調査をしてもらいたいというその願い持たれ、それを色川氏に「迫られる」機会に私は同席していた。
 たしか予備調査の始まる一九七六年の初冬、水俣病第一次裁判とその後の自主交渉もチッソとの協定書締結でひとくぎりがつき、運動紙『告発』が閉刊したその翌々年である。未認定患者の急増により、認定制度は破綻し、患者運動も多様化しはじめた時期だった。
 一九七〇年代初頭からの支援・告発の波頭は低まり、これから調査に掛かるには誰しも困難にたじろぐ時期だった。現地水俣からは「水俣病事件を百年を単位とする長い時間をかけても、記録に残そう…」という声が聞こえていた。後に「百年の会」が石牟礼道子宅で持たれることになったが…。
 それが私には不思議には思えなかった。というのもその前年暮れまでカナダ水俣病の発生地をはじめ、数カ月、「水俣映画」のカナダ横断上映の旅し、「世界に水俣病を伝わるには数十年かかる」と実感して帰国して間のない頃だったからだろう。
 かつて熊本告発に依ったある著述家が「炭鉱問題などにはかかわっても、こと、水俣病にだけは付合いたくなかった」と述懐されたこがある。「なんと正直な…」と私は好感すらをもった。それほどしんどさはあらじめ見える。だから、色川氏には気の毒さが先だった。私もかつては水俣病問題だけは付合いたくない口だったからである。
 石牟礼さんは「患者さんの中には都のひとにしか言えないこともありますでしょう」ともいう。後に「アノ貴種の流離譚」として私には煩わしくなる話の原形がすでに出ていた。
 長吟に堪えきれず、私は「もし調査が始まったら、運転手の仕事はいたします」と言ってしまった。現地の案内役に案外“東京もん”がいいと思うフシもあったからだ。
 随伴してみて、調査団の五年にわたる十回の現地調査の苦労は予想をこえた。一九七六年の予備調査のスタートの直前、氏が事もなげに「この間、一晩かふた晩で、急性胃かいようになった」と言われ、私は呆然とした。学際的研究者の集団とはどんなに個性のぶつかりあうものか知らないが、フィルムに結実する映画のスタッフ作りとは異なる神経の集中がいるのだと、この一ことで察しられた。
 団長の色川氏は総体のアレンジすれども、いわゆるキャップではない。参加者は個性的で既に声価の定まった「一国一城のあるじ」ばかりである。みな世界的な戦後の近代化の再検討と再構築を目指すことでは同志的だが、方法は各自で実現を目指す。壮絶だった。
 大著『水俣の啓示』(上下)の一章「調査団日誌」には、羽賀しげ子氏(事務局でもあった)によって各研究者の自己葛藤や、石牟礼さんとのすれ違いやきしみが記述され、大河ドラマの一端を見るようだ。誤解を恐れずにいえば「はからずも水俣の深みにはまった、しかし…」といった各氏の調査への出立時の苦悩や迷いは、私としも人ごとには思えなかった。
 調査団スタートの頃に前後して石牟礼さんの『椿の海の記』(七六年)が刊行されていた。私は水俣映画の入り口で、彼女の『苦海浄土-わが水俣病』(六九年)に遭遇したのに似ている。映画と文学、その表現の違いをモッケの幸いに、いわば「無駄な抵抗」はやめた。だが、石牟礼さん百年先を睨んだ激しいまでの仮託、水俣の蘇りを待望する気持は、やはり聞くものの身を焦がした。「ここまで近代化し、戦後資本主義に打ちのめされた水俣に再生の兆しがあるのか」と疑うメンバーも少なくなかった。色川氏が表題の言葉を述べられたのはそうした苦渋の果てであった。それまでに厖大な聞き取り、人との出会いがあって、おのずと口を衝いて生まれた「信」に聞こえた。「人間は蘇えり得る」のだ。
 最近の新聞によれば、東京経済大での最終講義の演題「歴史家は嘘からはじまり夢へ」とあるのを読んで笑えてならなかった。やはり大事業だった『水俣の啓示』は氏の夢への「信」があったからこそ完成したのであろう。その跡を継ぐのは至難な業かも知れない。
 (96,2,8)