わたしと脱原発 『はんげんぱつ新聞』 4月20日号 反原発運動全国連絡会 <1996年(平8)>
 わたしと脱原発 『はんげんぱつ新聞』 4月20日号 反原発運動全国連絡会

 昨年(1995)十二月のもんじゅのナトリウム漏れの事故で、これで原発政策は転換せざるをえないだろう、その傷口は裂けた…。“不謹慎”ながら、むしろ、不幸中の幸いではないかと思った。それというのも、原子力船『むつ』の経過を追った映画『海盗り-下北半島浜関根』での体験があったからだ。原子力に関しての事故は命取り、という話だ。
 周知の通り、1967年に原子力船基本計画がまとまり、やがて進水した『むつ』は、その16年後に廃船となった。その最大の要因は初の洋上出力上昇試験での放射線もれ事故(74年)だったのではないか。むろんむつ湾岸ホタテ漁民の捨て身の闘いや、母港予定地の関根浜の漁民のそれがあったが、事故のダメージは決定的だったと思う。
 撮影当時(83年)は『むつ』の存続は「国策のかなめ」(当時の科学技術庁長官発言)とされ、政府の強弁はしたたかだった。だが、その翌84年に廃船になった。あっけないほどの結末だった。私はその急変に半ば驚き、「物事には終りがあるものだ」と感歎した。
 思えばすでに79年のスリーマイルス島原発での炉心溶融「事故」以来、原発の事故の恐ろしさは誰でも分かる形になったし、それが世界的に原発の新設や原子力船の試みをストップする流れに逆流していた。呆気にとられた私の方がまったく時代遅れだったのだ。
 チェルノブイリ事故(86年)以後は原発依存の現状が見直され、まして高速増殖炉は各国で中止されている中で、日本だけが異常に見えた。「…それでも、もんじゅはやるの?」と危惧する矢先での事故である。「当り前じゃないか」と言いたくなる。
 これでもんじゅは死んだに等しい。いくら巨額な金を使ったとしても、事故アリの代物は癈てることができると、原子力船『むつ』で思い知った私である。今回のもんじゅ事故の報に、とっさに「これで一巻の終り」とし、「不幸中の幸い」と弔意を呈したいのだ。
 (96,4,4)