水俣病犠牲者の遺影を訪ねて 私の水俣病・その40年 『公明新聞』 5月12日付 公明党機関紙局 <1996年(平8)>
 水俣病犠牲者の遺影を訪ねて 私の水俣病・その40年 『公明新聞』 5月12日付 公明党機関紙局

 水俣病が公式にその発生が確認されて四十年になる。チッソの排水中の有機水銀によってひきおこされた公害事件は、猫や人間のその惨苦の姿を通じて知られている。しかし、ひとびとの全容・総体は窺い知れない。もし、顔顔々を一堂に集めたらどうなるだろう。
 文学や写真や映画の描いた“水俣病”はある。しかし、水俣病犠牲者の遺影そのものを前にしたら、観るひとびとはなにを思うだろうか。
 一昨年の秋から一年かけて、水俣病で亡くなった方々の家々を訪ね、その仏壇に飾られている遺影を複写して歩いた。今秋予定の水俣・東京展に展示するためだ。
 …遺影展示の企画にあたって、私は関係者への手紙にこう述べたものだ。 
 「…現代の戦争の悲劇や、人類の愚行、過失の記憶の仕方にはいろいろあるでしょう。
 米国にはベトナムで戦死したすべての兵士の名を彫った石碑の壁があり、アウシュビッツの犠牲者の髪の毛と入歯や眼鏡の山は鮮烈です。写真展示では知られているのはカンボジアでポルポト派に虐殺された人々の識別用写真の展示、沖縄の『ひめゆり資料館』には死んだ女学生たちの写真などです。即位後、沖縄を訪問した天皇はその資料館にニコニコして入ったが、不意打ちに会ったようにうろたえた、とあるルポにありました。
 写真を見る、それが逆に写真から見られたのではないでしょうか」。
 
 私が水俣病を知ったのは三十年前だった。そのころ、死者は四十人だった。だが今回、着手時、死者数は千九十人に達していた。たじろぎ、怖じ気づきもした。しかし同時に私にはある種の贖罪めいた気持があったのである。
 記録映画が私の仕事である。もし新聞記事やルポなら患者名は仮名にできる。医学論文でも人名は時に伏せてある。写真の表現は映像とはいえ、なまの声や言葉は伴わない。映画はレンズとマイクで、患者をまるごと撮る。無論、患者には撮影の都度、お断りした上での撮影だったが、十年も経つと、「まだあの私の出ておるあの映画を見せてまわっとるのか」といわれることもある。ミナマタ映画は国際的にも知られ、ビデオは世界に普及している。歳月が患者を変え、今は「むしろ忘れられたい」のかもしれない。そのことが風化の実態である。せめて篤い鎮魂があったら事態は違っただろう。
 「鎮魂にさきだち、まず記憶せよ、そして祈れ」、それが私の仕事の核心になった。
 遺影を断られる事は充分に予想していたが、困難は別の形で現れた。それは被害者、つまりその遺族が掴めなかったからだ。
 水俣病死者数はつねに正確に公表されていた。また近年、「慰霊式を復活した水俣市」という印象から、せめて水俣市では死者の名簿は公けされていると思ったが違った。水俣市や近隣の市町当局も「死者の鎮魂は良いこと。賛意を表します」と口を揃えていわれる。しかし名簿となると「プライバシー保護のため、死者といえども公表できない」とガードは堅かった。結局、不知火海全域の町村の被害者の原簿となると、加害企業チッソにしかなかった。そのチッソも「患者の団体ごとの許諾がなければ教えられません!」。二十数派に細分している患者団体の実態では、すべての許諾を得るのは到底、不可能だった。
 私は助手の青木基子と一から資料集めや聞き取り作業を始めた。二十数年分の新聞(死亡欄)記事からも物故者名を探したが、死者総数の八割しか掴めなかった。一年で撮影できた遺影は五百であった。「これが水俣病事件の“現在”か」と思う。水俣病隠しの風潮は町にも家庭内にも浸透していた。
 いままでも患者から「…たまりかねて申請すれば村八分、認定されて補償金をもらえばおおごとだった」とよく聞かされた。だから今回、死者の遺影の取材に限ったのだ。
 旧知の患者たちも「生きとる人じゃなし、仏さまならもうよかろうもん。みな撮らせてくれると思う。私がついて行こか?」と言ってくれたりした。が断り続けた。そのツテを頼るのはやさしい。だが、私たちは畢竟、東京に帰る人、患者は土地の人だ。あとにモメゴトを残しはしないか…、実際に断る遺族も多かっただけに固辞した。
 残された方法は一戸一戸への“巡礼”であった。私たちは未知の水俣を辿る希有の体験をしている気がした。「東京からきた人が『遺影を撮らせてくれろ』という」。めったに人の訪れない離島や僻村であればあるほど、遺族とっては訝しかったようだ。だが、訪意を知ると遺影に向かい「あんたの行きたかった東京だもん、写真でなと行ってきなっせ」と冗談めかしていう老女や「招魂式を東京でやってくれるのか」と私たちを近隣に引き回す世話役もいた。東京に親兄弟の魂が招かれる…それはやはり華やぎだったようだ。それが私たちを支えた。「手紙は読んでいたが、まさかここまで来るとはなあ」と笑う。その声が今も耳朶に残っている。それが水俣・東京展への私たちの支えになっているのだ。
 (1996,4,29)