水俣病の終わりの始まり 共同通信社配信 <1996年(平8)>
 水俣病の終わりの始まり 共同通信社配信

 水俣に出会い、胎児性患者の幼年期をテレビ・ドキュメンタリー『水俣の子は生きている』を発表して三十年になる。水俣の方々から良くも悪くも「あんたはもう身内」といわれてきた。それだけに最近戸惑うのは、「水俣病問題は解決してよかったね」と言われることである。「解決」とは三党合意によって各患者団体・個人との間に和解が成立したことを指しているであろうが、私には泣き笑い話である。
 四肢末端の感覚障害のあるもの…それだけでかつては水俣病とされた時期があったが、この方々への二百六十万円の一時金は、エイズ薬害事件の四千五百万はもとより、じん肺の慰謝料の線にくらべても各段に低い。十数年と法廷で訴え、あるいは直接交渉に病躯にむちうって闘ってきた者への償いとしては「何十年の裁判所ゆきの時の弁当分」(患者)ほどである。患者のがわからみれば、一種の「辱め」「差別」と受け止めるだろう。
 後述のように私は戸別に訪問し、犠牲者の遺影を集めた。患者は「ウチでの生活を実際に見てみんな」と、環境庁の人に会うごとに詰めよる。私も在宅の遺族が病人ばかりなのに驚いた。棄却者、処分保留者だらけ、しかも老齢化して自己主張も叶わない人ばかりだ。
 歴代三十四人の環境庁長官の内、水俣にいった人は七人にすぎない。
 「これが東京湾で起きたら四十年も放置しただろうか」とは熊大の原田正純助教授の口癖だが、東京ものの私には痛い。遠隔の地のひとびとだから見殺しに出来たと言われたに等しい。
 思えば、水俣病映画十五本の連作の過程にはさまざまな悔いと痛みを残している。私はそれを軽くする方法を考える。この度、この秋に開催予定の水俣・東京展に水俣病犠牲者の遺影を並べる仕事を考えたのもアウシュビッツや沖縄、広島、長崎の鎮魂の在りようの後塵を拝してのことだが。
 企画から二年、ようやく、五百人近い肖像写真を収集した。このため、水俣に一年間滞在した。『記憶といのり』と銘うったこの企画は、水俣現地の支援者、関係者を喜ばせ、驚ろかせた。被害者の顔写真を一堂に集めるという発想はなかったからだ。
 私と助手は遺族の所在を地図、電話帳の突き合わせから始めなければならなかった。
 さて、実績は-。私たちの遺影コピーの個別訪問を受け入れた遺族が三分の一、気が進まないが、東京もんの顔を立てて遺影を撮らせてくれたのが三分の一、残りは拒否された。
 その拒否には「いまさら」という恨み、諦めもあろう。一方、思い出し笑いの種だが、物故者をネタに「成仏できる有り難いビデオ」や「きれいな肖像画、描きます」といった類いの商法の外交員と見られ、追い返されたされたこともあった。…そして未だ名前すらわからない犠牲者が二百余人残った。行政を通じればほぼ完全に分ったろうが、任意の企画であれば不可能だったと思う。
 記録映画は資料性を具有する。
 「もう、かつての水俣病は映画のなかにしか残っていない」と四半世紀に及ぶ支援者の古参リーダーはいう。私たちは決して長期な記録計画を建てて作ったわけではないが、取材の息の長さは何かを浮き彫りにした。この事件が高度成長期の生け贄(いけにえ)であったのとうらはらに、水俣病の現場も補償金の乱舞によって“高度成長”を遂げた。
 現在、水俣市では「もやいなおし」という修復の機運が出て来た。だからと言って終りではない。真似る前例がない試みであるだけに、その行方は普遍性をもった問題である。
 広大な埋立て地を眼前にして過ごした一年、そのただ中で水俣病の“全面解決”の報は空耳のようであった。水俣の蘇りは人間の蘇りということに尽きる。せめて、未救済の胎児性患者がその一生を終える日までは記録の継続を望まれる。その息長い仕事には私の時間は足りない。「映画百年」である。水俣病記録もまた百年単位というところであろうか。