患者の遺影を撮り続けて 「記憶と祈り」の旅 週刊『金曜日』 9月27日号 <1996年(平8)>
 患者の遺影を撮り続けて 「記憶と祈り」の旅 週刊『金曜日』 9月27日号

 いま開かれている水俣・東京展に水俣病犠牲者五百人の遺影が『記憶といのり』として展示されている。名前と没年、亡くなった年齢、家業などのほか、聞き取りで得た遺族の話やごく短いエピソードが添えられている。肖像写真の素材は多くの場合、葬儀の折の遺影であり、仏壇の上に掲げられていたものだ。鮮明なもの、輪郭のぼやけたものとさまざまだが、その遺影の背後には不知火海の家々の匂いがこびりついている。その肖像にピントを合わせた瞬間にレンズを通して聞こえてくる死者の声がある。「東京の人は私の写真をどう見るかな」と言いたげなのだ。その遺影に「みんなは東京までよくお出でくださったと感謝しますよ」と告げながらシャッターを押した。
 遺影集めに当たって大きな暗礁は死者名簿が入手できなかったことだ。さらに訪問先で写真にカメラを向けるまでには、その遺族の住所姓名の確認、遺影複写の依頼の手紙、遺族宅さがしと手順を踏むのだが、玄関先で「うちはもう撮らんでもよかです」と断られることもしばしばだ。その時にはすぐに引き下がるようにしている。もう水俣病には触れたくないというのが普通であるだけに、写真の前に案内されると自然に合掌したくなる。
 私は水俣にとっての“よそもの”である。旧知の患者から見るにみかねて「わしが案内してまわろうか」という申し出もあったが、患者の仲介は原則的に辞退することにした。私たちは仕事がすめば水俣を去る人間である。だが患者はここに生きる人、もし「出過ぎた真似をする」と非難されたら水俣では住み心地が悪かろうと思う。
 また電話でアポイントメントをとるという都会風の申し出は相手を困惑させるだけだった。顔の見えない人の依頼を薄きみ悪く思うのだろう。そこでできるだけ視覚的な資料(沖縄のひめゆり部隊の肖像展示やアウシュビッツの遺影展示など)を揃えて依頼状を出し、後にその家に直接足を運ぶことにした。地区の端から住宅地図にマークした一戸一戸を順々に訪問した。地区には通常、幾つもの患者会派が入り混じり縦わりの組織になっている。私たちの遺影集めに非協力の会派もある。それを横断して訪問するには「この地区の端から訪ねています」というのが一番順当だっただろう。坊さんではないが托鉢に似ていた。
 私が水俣病にはじめて接して以来、折にふれて連作を重ねてきた。そこで多くの患者を取材してきたが、いわば撮りやすい患者、とりわけ裁判を闘った患者を撮ってきた。今回亡くなった患者宅をしらみつぶしに訪ねたことにより、私のこれまでの取材活動は片肺飛行だったと思い知った。未知の患者の生活にある陰りにあまり触れてこなかったからだ。
 患者は体の苦痛のほかに三つの苦しみを受けている。水俣病は悪性の伝染病である…これは奇病といわれたごく初期の社会的風潮から引きずっているものだ。つぎに水俣病は遺伝する…これは水俣病の発見から七、八年して胎児性患者が確認されたときの記憶である。これが母親の胎内での水銀の曝露によるもので、汚染された魚を取っていなければこうした傷害はなかったのだが、記憶としては遺伝性疾患としてひとびとに残った。第三にニセ患者と見なされる苦痛である。これは水俣病が神経疾患として外見上は分かりにくいことから、ときに陰口の言われっ放しという事態をひきおこす。この三重苦に苦しめられた。そのすべてが絡まった社会的偏見から自由になるには水俣病そのものの知識、水俣病事件の歴史を体得するほかはない。その体得の機会などあるべくもなかったが、被害者は直感で真実をかぎわけていたようだ。
 水俣病が有機水銀によると熊大から発表された頃、ある町では最初の奇病患者が水俣病患者として入院するとき、これでこの一帯の奇病の原因が水銀中毒とわかって有り難かった、みんなで出征兵士を見送るような気分で入院する患者を送りだしたという。奇病が伝染病と流布されていた時代の話である。
 とかく水俣近傍の出身というだけで差別され、縁談も壊れるといった悲劇、ニセ患者視による誹謗や中傷から全く無縁であったという人はない。この苦痛に満ちた悲哀は訪ねる先々の患者からうかがわれた。水俣病が社会的な疾病でもあるといわれる所以である。
 「死んで解剖してもらって水俣病と分り認定された」とニセ患者の謗(そし)りからは免れたという経緯を語る遺族もいた。死後解剖で認定というケースが、ある町では死者の三分の一にも及んでいた。それはほとんど地元医の薦めであったようだ。認定審査会に棄却や保留処分を言い渡されてきた患者に対し、地元医の機転からの処置だった。そうした医師の薦めのあった町では驚くほど高率の死後解剖認定が見られた。曝心地水俣ではこのような医師はむしろ少なかった。ニセ患者発言がひとびとの言葉にはしばしに残っていた。
 毎年五月一日、水俣病公式発見の日に慰霊式が開かれるようになり、メモリアル・オブジェと呼ばれる記念碑が近く市立水俣病資料館の前庭に完成しようとしている。そのオブジェには水俣の犠牲者の名簿が安置されるが、壁面に名前を刻むようなものではない。名簿収納のスペースがあるだけだ。
 こうした水俣の流れにもかかわらず、犠牲者の個々人を偲ぶ対象が欠けているのはなぜだろう。沖縄の平和の碑やワシントンにあるベトナムでの戦没者の碑の例を見るまでもなく、世界のミナマタ、公害の原点の地に水俣病の死者の名を止めた事物がないというのは水俣病の現在を考える意味で考えさせられる。この遺影集めは一石を投ずることなろう。名前だけでなく、その肖像まで掲げるからなおさらである。
 ささやかなドラマがあった。困惑をかくせず、私のお願いにはじめには不承ぶしょう応接していた人が、撮り終わってからはからりと晴れやかな顔になることがある。“隠し事”から解放されたような気分になって故人の話題を語りだすとき、一陣の風が吹き抜けたような空気になる。故人が“犠牲者”だったことに改めて思い至ったといった変りようがその顔に現われているのだ。こうしたことから水俣病の隠微な患者隠しの風土が変わっていけばいいと願っている。