映画『海盗りー下北半島・浜関根』の背景について 「山形国際ドキュメンタリー映画祭'97」 山形国際ドキュメンタリー映画祭実行委員会
水俣の仕事をしながら、私の脳裏にいつも青森県の下北半島があった。それというのも一九七二年、水俣の映画を上映しに訪れた下北の六か所村の記憶があったからだ。巨大開発の予定地は買い占められ、集落や開拓地は破壊され、惨澹たる荒廃ぶりであった。
そこに日本列島改造計画の筆頭、むつ小川原開発計画が策定され、石油備蓄基地からその精製所や石油コンビナート、加えて原子力製鉄までを含む原子力産業立地が予定されていた。まるで無人の地に“国内の植民地”なみのレイアウトであった。原発産業の首脳部は「まだ日本にこんなこんな手つかずの土地があったのか」と喜びの声をあげた。下北半島は原子力資本にとって、ほしいままに開発できる土地であった。その下北半島の津軽海峡側に映画『海盗り-下北半島・浜関根』の舞台の漁家集落があったのである。
漁村、浜関根が原子力船むつの母港に強権的に選ばれたのは一九八一年、その七年前の七四年、原子力船むつは初の洋上実験で放射線もれ事故を起し、以来日本漁民に広くその危険性が知られていた。ついで七九年にはアメリカのスリーマイル島の原発での炉心溶融事故があり、原発そのものの安全神話が揺らいだ。そうした状況のなかで修理を終えた原子力船むつの“漂流”が始まった。国は国策としてむつの母港探しに奔走した。そして放射線もれ事故以前にむつの母港であったむつ市大湊にふたたび母港化を要請した。青森県も国に同調した。そして期限をつきで他に新母港を造る条件で、原子力船を嫌うむつ湾漁民を説得し、大湊に回送した。国は下北半島の漁民の力の弱い地を探し、津軽海峡の浜関根を選んだ。だが潮流も強く波の高いこの海に母港が建設されるとは…現地の漁民は真に受けなかった。浜関根が県内でも僻地であることから、青森県民、むつ湾漁民も無関心になった。孤立した浜関根漁民の一部にようやく反対運動が起きはじめたのは母港予定地に決定して三年、漁業補償が提示され、漁業権の買収が現実のものになってからである。
一九八三年、ひとり芝居の俳優、愚安亭遊佐がこの問題の記録映画化を私に頼みにきた。奇しくもかれは浜関根の網元の一族であり、この反対運動に全国的な支援を取り付けるために奔走していた。その彼の手引きで撮影に入れたことは幸運だった。一挙に漁家集落の中心、しかも反対派の網元の番屋に起居して撮影ができたからである。
映画『海盗り-下北半島・浜関根』は地元の反対派漁民と国・青森県との戦いの記録であるが、負け戦の記録として撮った。なぜならかれら反対派は漁協のなかでは少数派であり、国県あげての札束攻勢により多数が母港化やむなしに傾いていたからである。
漁民の海を国や県はどのようにして奪うのか、その“海盗り”の過程と手口を描くことになった。日本の列島改造や開発なるものの裏にはいつも海盗りが横行していたにちがいない。カメラは浜関根からさらに下北半島全体の海盗りの痕跡を辿ることになった。十年前に六か所村で知り合った漁民たち、海を盗られたひとびに再会した。日本の知られざる国内植民地、国策に翻弄される辺境の人々の過去と未来を暗示できていれば幸いである。