『在日』国境をこえて明日を描く大河ドキュメンタリー 共同通信社配信
長編ドキュメンタリー『「在日」-戦後在日五〇年史』を見た。これはまさに時宜を得て、五〇年に一本生まれ得たかどうかといった類いの傑作である。監督呉徳洙(オ・ドクス)はこれまでにも『指紋押捺拒否』など在日のドキュメンタリー作家として知られているが、今回、戦後から今日までの在日の歩みをいわば鷲掴みで描いてみせた。これは在日二世である映画作家としても、渾身の力わざなくしては成就できない仕事と思う。
四時間の長尺のフィルムでありながら、飽きることはなかった。
歴史的叙述に費やされた前半、三世代の個人史を深く彫った後半と、それぞれ二時間のフィルム二部作といった構成にあり(途中休憩も配慮されていたから見易かったのかもしれないが)緊密な構成力とリズム、歌曲が全編に起伏をあたえてリードしていく。
延べ四時間余の長さが必要だったことは、見終えて初めて分かる。五八時間分の素材をそぎ落とし、絞りこんだ凝縮度がある。それでいて大河小説のような流れがあるのだ。
在日の五〇年とはそのまま日本人の戦後五〇年であった。
映画は朝鮮人にとっての解放の日、一九九五年の八月一五日の光復節ソウル、神戸、東京の民族行事の賑わいから、一挙に敗戦後のシーンに引き戻される。そこから始まるニュース・フィルムと写真などのモンタージュには、今までに見られなかった類いのニュース映像がふんだんに使われ、目をみはった。都市下層の暮らし、“難民”のような流浪、北朝鮮への帰国シーンや度重なる弾圧の現場などの映像はこれまでTVに多用されていた“資料映像”の質を超える鮮烈なものばかりであった。その発掘自体が呉徳洙監督の狙いであったことだろう。これらは在日の眼をもってしなければフィルム倉庫に埋もれたままであっに違いない。これら映像に沿っての証言者の回想はリアルに当時を表現していた。
同時代、“ふたつの祖国”の政情を年代別に振り返りながら、映画は在日の身分で闘った諸個人の記録を構成していく。
たとえば大企業日立を相手に就職差別を撤回させた朴鐘碩(パクチョンソク)、司法試験をパスして弁護士資格を争った金敬得(キムキョンドク)、「自分の一本の人差し指で闘える」と指紋押捺を拒否し、全国的な運動の口火を切った韓宗碩(ハンジョンソク)、外国人として地方参政権を裁判であらそっている李鎮哲(イジンチョル)などの主体的な闘いを時系列で追って、人間味の濃い在日の人権の拡張の営為をえがいている。そのなかに、野球界に不滅の記録を残し、在日を励ました張本勲(張勲チャンフン)選手や日本女子バレーのアタッカーとして皮肉にも韓国チームと戦った白井貴子(尹正順・ユンジュンスン)選手などの「英雄伝説」もある。その一方、負の現実である小松川高校生殺しの未成年の犯人李珍宇(イジンウ)のいわゆる少年死刑囚事件や、寸又峡温泉に立てこもった殺人犯、金嬉老(キムヒロウ)の真情やその社会的背景に触れて、戦後五〇年の輻輳した在日の精神史の流れを描くことに成功している。切れ切れだった記憶が蘇るのだ。
後半部「それぞれの在日」はさらにそれを徹底した人間描寫で、三世代に及ぶ個人像を描き出している。どの登場人物の肩にも触れたくなるような温かみのあるカメラアイだ。
戦後の闇市、パチンコの景品買いに生き抜いた七九歳の一世の女性。先祖の地韓国と生まれ育った秋田県田沢湖のふたつの地を故郷として、そのいずれにも愛着をもつ二世。日本名新井英一。在日ブルースを歌い日本人の心を虜にした二世歌手のシーンは圧巻である。また、テレビカメラマン、陸上競技選手、名作『にあんちゃん』の作者の娘、女子学生のこもごも語る未来は、三世として半ば日本人になりながらそれぞれの居場所をさがす明るい青春の人間の模索で映画をしめくくっている。国籍、国境は実態的に乗り越えられつつある。明日の仲間を受け止めようと手を広げて、うねっているような映画だ。この映画を見るか否かで、われわれの「在日」の見方が左右されるといっても過言ではないだろう。
(1997,11,29)