水俣での鶴見和子さん 『鶴見和子曼荼羅月報』 4号 3月 藤原書店
はじめて鶴見和子さんとお会いしたのは一九七五年九月、カナダのトロントの路上であった。その年、水俣病患者浜元二徳、浜田岩男、そして川本輝夫の三名は太平洋を隔てて、カナダのインディアンの間に発生した水俣病をきっかけに、カナダの患者を励ますため、この地を訪問していた。私はフィルムを持ち、上映しながら患者と一緒にその全旅程に同伴していた。そのある日、トロントでの民衆環境会議に川本輝夫と行く途中、彼女によびとめられた。目敏く川本さんに気付いたのは彼女の方だった。かねて面識があったわけではなく、連日のように報道されていたカナダ水俣病の記事で患者の訪問を知っておられたのだろう。彼女は旧知のように川本さんの手を握って「病気の身で大変ですね」と労をねぎらった。
彼女のその時のいでたちはまるで西洋のおとぎ話に出てくる魔女のようだった。黒いとんがり帽子に黒のコート、あしの先まで黒づくしで、差し出す手の白さがきわだっていた。川本さんは気恥ずかしいのかしどろもどろであった。まるで貴族と百姓が出会うの図である。だがその彼女のいたわりには溢れるほどの情が籠っていた。あとで川本さんは「まこて気品のある、日本人じゃなかひとみたいじゃなあ」と言った。その鶴見和子さんが翌年から数年、調査のためせっせと水俣通いされることになる。
今は『水俣の啓示』(筑摩書房)に結実してその声価を定めているが、不知火海総合調査団のスタート時、一九七六年は決して水俣状況の良い時期ではなく、団長色川大吉氏の執念に満ちた采配がなければできなかった。またそれを促す石牟礼道子さんの強い願いもあった。石牟礼さんは都から辺境にきた学者たちは貴種であり、村人も何かを語り始めるだろうと、貴種流離譚を説いてやまなかった。鶴見さんは副団長格だった。貴種に似合った品格で際立っていた。
団員はほかに社会科学の石田雄、宇野重昭、菊地昌典、最首悟、日高六郎、経済学の小島麗逸、宗教学の宗像巌、哲学の市井三郎、政治学の内山秀夫、医学の原田正純、民俗学の桜井徳太郎、それに作家の石牟礼道子、角田豊子(以上敬称略)ら、そうそうたるメンバーである。それぞれに独自の研究分野をもち、水俣病問題との接点を見つけることにも骨の折れる人も抱えていた。
七六年当時、水俣病裁判(第一次訴訟)が七三年に勝訴を勝ち取り、訴訟しなかった他の派閥の患者にもその成果を施し、一件落着のようでもあった。が、その後の不知火海漁民闘争もはかばかしい進展を見せず、なにより未発掘、未認定患者の急増により、行政の認定審査会は機能しなくなり、患者団体もいくつもに分裂したまま、緊張の高まっている時期だった。総合調査団としては「中立公平」を標榜して、その分裂した状況のなかでの幅ひろい横断的な調査を志向していた。だが裁判の終わりまでは破綻をみせなかった訴訟派患者団体にもひびが入り、支援のグループにもその余波が襲い、すんなりと患者世界に入れなかった。それは不知火海総合調査団にも微妙に反映し、研究会は着手を前に動揺した。私は水俣の地先案内人に徹して事態を見ていた。そうした局面で断固として調査団を引っ張っていたのは鶴見和子さんであった。前に進むのか、足踏みするのか、撤退するのかきわどい瀬戸際に鶴見さんはいった。「私はすでに水俣の人に出会ってしまった。とくに胎児性患者の上村智子さん(最重症患児)を見てしまった。彼女が私の背に張り付いている。私は十字架を背負ってしまった。上村智子さんがその十字架です」と激情を抑えて言い切ったときに、もつれていた会の雰囲気はずるりと動いたかに思われた。
やがて鶴見さんは水俣病多発地帯月浦、出月、湯堂、茂道の全戸調査に手をつけた。
何時も藍色系の和服でぴしゃっと決めていた。目立つことにものおじしなかった。きらきらとした華ある姿で家々を訪ねるとき、患者はまさに“貴種の流離”と受け入れ、重い口を開いて話してくれるのだった。酒席で興いたらば踊りもする。ときには興味尽きぬままに尋ねたボラ籠を「もっていきなっせ」といわれたり、彼女につきあった患者から内職の大島紬を大枚をはたいて買わされたりした。だが万事自然の振る舞いであることで患者を和ませた。こうして多発部落の全戸の悉皆調査をし、じごろ(定住者)と流れ(漂白者)そして新入りという住民図をつくりあげた。この業績はいまだ誰も超えていない。また彼女のえらんだキーパーソンはいまも有効に水俣の典型でありつづけている。
鶴見和子さんのその持つ貴族性と民衆への下降性は、貴種の流離と表現した石牟礼さんの言葉に沿うように、確実に華を咲かせた。いまも水俣の人は彼女の事を忘れてはいない。