膨大な記録映像を残して逝った地元作家・鬼塚巌の世界 『西日本新聞社』 6月2日付 西日本新聞社
水俣の映像記録作家、元チッソ従業員の鬼塚巌さんがさる五月二十八日、肝臓病で他界された。古希にあと数日を残し、六十九歳の生涯だった。通称ガン(巌)さんは水俣庶民社会に埋もれながら、カメラ、8ミリ映写機、のちにはビデオを駆使して水俣病患者や埋め立て地や犯罪現場ともいわれる水俣湾の水銀ヘドロの記録を撮りつづけた。元チッソの社員だっただけに視点は的確だった。そのかれの死は早すぎた。水俣の記録を志す人間にとっては大きな空白感を感ぜずにはいられない。かれはいわば水俣の民衆史にとって生き字引のような存在だったからだ。
「人殺し企業チッソ」の一員の自覚は終生変わらなかった。映画のナレーションにも写真の解説にもチッソ批判が貫かれている。その原点には安賃闘争の体験が色濃く反映されている。もしこの組合運動の体験がなかったら、その後の水俣病や会社の恥部に容赦なく迫った作品群は生まれなかったであろう。安賃闘争以後の仮借ない会社の圧迫、偏見と差別を味あわされたかれは、かつては無視してきた患者の境遇がかれのそれとまったく同じく、「人間を人間としてみない」企業の体質からであることを知った。それから彼は変わる。しかし患者にカメラをむけることにためらった。加害者企業にいるものが患者を撮っていいのか。むしろ「撮ってはならぬ」と自分の手を縛った時期があった。やがてようやく意を決し、カメラをむけるが目をつむり合掌するかのようにシャッターをきる有様だった。患者はそうしたかれを見ていたであろう、かれを受け入れるようになった。ここからかれの連作がはじまる。とりわけ貴重なのは胎児性患者の幼年期の記録『怒れない世界』である。プロである私たちの水俣病との出会い以前に、詳細な記録がつくられていた。水俣病の映像の歴史にその時代の記録は鬼塚巌さんの作品しかない。
私がかれと出会ってから数年後、かれははじめて私をかれの屋根裏の仕事部屋に招いてくれた。そこには代表作『怒れない世界』はじめ、編集ずみの映画『水俣病-1』『水俣病-2』そして数千点の写真のネガと密着、さらに数百本録音テープが整理されていた。引き伸ばされたパネル写真がその屋根裏の天井までところ狭しと展示されていた。さらにかれは恥じらいながら数冊のアルバムを引き出した。題字からイラスト、説明文まですべて筆ペンでびっしりかきこまれ、手づくりの一冊に製本されていた。私は現地にきた出版人や編集者には必ずみてもらったが、厖大すぎて出版の話にまでは実らなかった。ガンさんにとってはそれはどうでもよかったのかも知れない。かれは本を自家製本したことで記録者の責任を全うした観があった。しかしやがて現代書館にやる気を起こさせ、『おるが水俣』として出版された。鬼塚巌の世界が濃密に描かれ、その背後に厖大な資料があることを告げている。この徹底した作品群と資料が水俣で今後どういう形で残されるか。余りに重い遺産に思える。さようならガンさん。記録は死なず大切に守られるであろうから。