「映画してます」という新世代 『大法輪』 大法輪閣 <1999年(平11)>
 「映画してます」という新世代 『大法輪』 大法輪閣

 映画を志す若い人は驚くほど多い。映画学校は大繁盛である。私の周辺にも記録映画に魅せられた青年が近づいてくる。劇映画の門が閉じられて久しいから、試みとしてひとりでも撮れる記録映画から、という選択でもあろうか。私には悲喜こもごもの感がある。
 当節の若者はテレビっ子である。早い話、彼等はビデオカメラを手にすることは易しいし、オモチャ感覚で撮った経験もある。映像感覚は生まれた時からテレビから学んでいる。批評の眼力もかなり備え、それが映画志願に繋がっている。だが、才能と幸運だけでは生き残れない世界である。周辺の作家やカメラマンの生き残りを見ると、私を含め、生きているのが不思議なほどの低収入である。もっともフリーで好きな映画を作ってきたひとびとを指すのだが、そのほとんどは細君が自立している場合が多い。「妻食(菜食)主義」がかつての詩人たちには当り前だった。それとほぼ同じだ。
 だが最近は生活の場は別に持ちながら、志を実現している世代が登場した。学生作家は不思議ではないが、アメリカなどでは大学に勤めたり、主婦で子育てを終えた女性がドキュメンタリーを作る事例が現れている。三十歳過ぎての選択で、高齢出産に似ている。
 日本でもまれだが日頃はラーメン屋で働いたり、ビルの窓ふきなど、いわゆる3Kの仕事をしながら、一作を時間をかけて作る作家が登場した。数年に一本撮れれば、という。連作しようと意気込まないし、プロへの執着もない。ただ自己実現に賭けているといった趣きだ。映画を考え続けて暮らす。「映画と一切無関係のラーメン屋で生きる方が、自分の映画の夢が損なわれない」と言い切る彼等を見ると、その潔癖さに目を見張る。どの世界にもアマチュアとプロの垣根はなくなった時代だ。「生活しています」を「映画しています」とジョークで言う彼等に注目したい。一作で映画史に残った事例もあるのだ。