瀬川順一は「キャメラマン」である 『ガイアネット九州〈通信〉』 3月3日号 ガイアネット九州
普通は「カメラマン」と発音するのですが、瀬川さんは「キャメラマン」という英語風の語感が好きでした。多分、昭和十年代、モダンボーイやモダンガールといった若者言葉が流行った頃への、ダンディな彼のノスタルジー(郷愁)があっての事でしょう。たしかに自己紹介のときには、決まってそう言ったものです。彼のこのこだわりは一事が万事でした。自負でもありました。伊勢真一監督の映画『ルーペ』のなかの挨拶に「キャメラマンは(自分が一番上手いと)自惚れなければやってられませんよ』と冗談まじりに言っていますが、わがままなほど現場では自愛ぶりを発揮したものでした。それがドキュメンタリーの歴史に一筋の影響を落としているのですから、特記しないわけにはいきません。
一足飛びに話を進めますが、映画を見るだけで、彼のカメラは「これは瀬川順一の画だ」と分かります。それほど独自のスタイルを持っています。端的にいえば徹底した審美的で構図がしっかりした古典主義ともいえる映像です。めったにパン(首を振るカメラワーク)をしない。静止したフレーム(画面)の中で動くものをとらえる。ズームは極力避ける。カメラ全体の位置がこれしかない程の適格さなどが指摘できますが、なにより構図への凝視が観客に要求されます。それはときに過剰に出て、カメラばかりを意識させる画面になる事もあります。しかし、それは彼の責任ではない。映画『ルーペ』のなかで「撮りっ放しのラッシュ(フィルム)がおれの映画であって、完成した作品は監督のものだ。そこではおれの映画は終っている」とシニカルに言っていますが、カメラをことさら意識させないで編集するのが監督の腕ではないか、という挑戦的意味でもあるでしょう。その癖、彼のカットは鋏を入れるのを拒むように、ある「撮影者の息」の間尺があって、なかなかスパスパとは切れない完成度を持っているのです。おそらく他人の編集に満点を付けたことはまれでしょう。その点、手前みそになりますが、映画『水俣の図・物語』は彼を大方満足させた作品だったようです。ただ私に言わせれば、もう少しカットを苛めた(切り詰めた)ほうが良かった、すこし重たさが残るという自己批判が残っています。
同時に御覧になる『風』は小品ですが、瀬川キャメラの非凡さが凝縮されたものです。風を撮るという、絵にならない空気の動きをシネポエムにするのですから、誰もやっていない試みでした。この現場には演出家はいません。瀬川さんにすべてが託されていました。それだけに苦吟を重ねたようです。その結果古典的で、しかも前衛的な作品になりました。
では、ドキュメンタリーのキャメラマンとしてはどうだったでしょうか。正直に言ってはじめは下手でした。瀬川さんの技法のルーツは劇映画の世界です。役者の動きには、自在にカメラが付いているように見えますが、それには計算された撮影設計があってのことです。しかしドキュメンタリーのように、対象が動くときにはそれに沿ってカメラもフォローしなければなりません。私と組んだ『留学生チュア・スイ・リン』(1965年)は激動する学生の闘争によって不当な学外追放の処分を撤回させた、いわゆる「千葉大闘争」の数日間の記録です。ここで始めて手持ちカメラで対象のチュア君を追っかけるというはめになりました。そこではガッチリと三脚を据えたたカメラでルーペのなかで作画するという瀬川さんの特技は使えませんでした。それを補ったのは彼の対象への愛と執着力でした。苦悩し、あるいは勝利を予感して動くチョア君のわずかな表情の変化をとらえるカメラの緊張がそのぶれや乱れに息づき、緊迫感にある場面を撮ることができました。これ以後、ドキュメンタリータッチの撮影の場数を踏むことになりました。その達成が最晩年の伊勢作品『奈緒ちゃん』です。しかし、やはり彼の本領は飽く無き「作画精神」にありました。その点、映画美がものをいう芸術性を意図した作品群では第一人者の座を保ちつづけたのです。
彼がドキュメンタリーの世界に訴えつづけたものはキャメラマンの独立性とその人格性だったでしょう。それはカメラのシャッターは誰の感性で押されるものか(あるいは押す事を拒むか)といった、映画の根幹を問うものでした。「撮りたくないときには監督が『撮れ』といってもカメラを回さない」という、監督にとっては実にコワイ話でした。それは彼が助手時代に『戦ふ兵隊』(1938年)における監督亀井文夫とキャメラマン三木茂の間で、あるカットを撮らなかったことを巡って交わされた論争に由来したものです。戦場近い村で、逃げる少年を捕らえた亀井監督が、はがいじめしたまま「この少年のアップを撮れ」といったが、三木キャメラマンはついに回せなかった、それは良心が許さなかったという一幕から発展したものでした。瀬川さんはそのことを絶えず問い返してきたのです。その顛末は映画『ルーペ』の主題になっていますから詳説は避けますが、それは日本の記録映画史に残る論争として、その後も論議され続けてきました。それはキャメラマンにとって「撮れないもの」「撮らないもの」があり得るというドキュメンタリー論のひとつの核心でした。それを若い後継のキャメラマンたちに伝えるためにその一生を賭けたといってもいい瀬川順一さんでした。
それは副次的にいろいろの論争を伴うものでした。例えば死に逝くものを撮れるのか、あるいは決定的瞬間は撮れなければ「致命的な失敗」なのか、またはヤラセの可否といったキャメラマンの日常的に迷う諸問題にまで及びました。私の結論は「すべて現場次第」といった一見、“暴論”ですが、これはスタッフが複数である時にはいつでも必要な作業です。こうしたドキュメンタリー現場のワンカット毎といっていい論議の有無こそが作品のエネルギーなのだと言いたいのです。今日も新鮮なこの問題を、映画を見る場合に想起されれば創作物としての映画のある種の「生きものらしさ」が伝わってくるでしょう。論題「映画は生きものの仕事である」という私の話もそのあたりにあるとご理解ください。