書評 水俣で一生を生きた巡礼教師”の青春譜 共同通信社配信
今頃、こんな奇跡的な記録というか、全共闘世代の学生がひとり巡礼姿旅で東北地方、北海道の道東地方(札幌の人すらめったに行かない“僻地”)まで歩いたという当時のナマ日記の出現である。水俣研究者、歴史家しら知る人はまれな、当時の日本北半部の各地の運動の記録でもある。尋ね先は知名の労組、教組、市民団体。そこでの混迷ぶりがいまは懐かしく想像される。何せ白装束である。駅のベンチの老人たちには目でもの言われるいう経験などの私的ノート。そして一生を大島の一夜間高校の教師でおくり、定年間近かになって限られた仲間(後述)に見せたのが縁で本になるというのも異色ではないか。私は書評の方法を持たない。
有名な水俣巡礼の創案者は俳優の故砂田明であることは知られた話だ。その影の話でもある。もし七十年代の私の映画『水俣』などご覧になった方も見直す機会があればと思う。患者と支援の出会いの原光景と言われる初の交流シーンで学生巡礼らを代表して、カンパ報告する役が彼。嗚咽と涙で総額まで語りおえるのがやっとというアノ青年のナマ日記というだけで、水俣あるいは三里塚のあの時代へ思いを馳せる人が万といよう。映画は現存している。東京からあの万博会場前、ヒロシマと喜捨を求めている一行の目撃者も当時は少なくないはずだ。「水俣」の文字が襟にありそれだけで一瞬に民衆に理解された。
その金の透けた袋にアルミ貨から千円札、そしてアメリカのセント貨まで。当時の患者には全く想像の域を超えた。ただ黙然と瞑想するようにすら私には見えた。この三十年、世界で見たひとびとの反響も、「理解できる」ものだった。その主人公がいまの著者なのである。俳優砂田明でさえ自作の詩をトチり、嗚咽し、叫び、役者かナマ身か名状しがたかった。一方、患者はみな打ち合わせたかのようにシーンと静かだった。おカネが聖りのように患者には見えたのだ。患者はあとあとまで語り草にし、今も鮮明に記憶している。支援の原点が巡礼であり、その感動を胸にした彷徨記だが、社会観察も独特である。たとえば北海道のパルプ工場での警備とのゴタゴタ(フィルム没収)騒動記など、名文というのはこうしたものか。詩もあり恋愛もあり就職記もあるのだから若い人むきかもしれない この日記の発見者も巡礼の一人、写真家宮本成美。巻頭解説が現在、水俣を透視している第一人者栗原彬氏の文章といえばもう私は書くことはない。半世紀に一冊の青春日記かも知れないと私には思える。
(99,3,28)