庶民性か前衛性か・川本輝夫さんの場合 『川本輝夫さん追悼文集』 6月19日 川本輝夫さんを偲ぶ会
「私心なく水俣病運動に献身した人物」という川本輝夫氏への共通した評価に全く異存はない。どころかそうした氏の言動を実践の場で見ていたはずの私は、今回、四月から数十日の水俣滞在中に、川本輝夫宅の花に囲まれた遺影のある仏間で見聞きした故人の素顔には改めて感じ入るものがあった。
仏間には告別式には飾られなかった献花、石原慎太郎と細川護煕両氏のそれがあった。つまり往時、彼我、分たれて対峙した人たちからの礼が尽くされていた。それを身内にしか見せない風情の奥さんのミヤ子さんに「いい話ですから」とポーズを取って写真に撮らせてもらった。その仏前に「ハーモニカ振興会認定指導員」の鑑札、山本直純会長の名があった。かたわらにまだ買ってまもないというカラオケセットがある。「これが買いたくて何度も見にいきやすもんで」とミヤ子さんはわらい「これが欲しかったらしかが、最近やっと買ったとです」という。気のあった同士の志垣襄介氏や宮本巧氏などと好きな酒場にいっては演歌を歌っていたという。とくに胎児性患者の母親で未認定の松下ハツ子さんの店「ハッチャン」では閉店までねばった。歌えばご機嫌と言うオッサンだったらしい。
ダンボールいっぱいの弔電の中に右翼からのも保存されていた。愛国党(熊本市)内村正弘として「巨星おつ。水俣を愛し、水俣に生き、思想的には相反しても、水俣を愛すること、水俣を恋すること、すべて一緒でした…」という熱い弔文である。70年代の後半のころ、あいつぐ嫌がらせに一計を案じた志垣氏の紹介で右翼筋を通じ、暴力団のオチョッカイを封じようとした時の人脈らしい。「人柄に惚れて」というパターンは石原氏の場合と一脈通じるものがある。庶民の水脈は川本輝夫氏の中に流れていたようだ。
「あの人の勉強ぶりは必死だったな、よく本を読み込んで」(志垣氏)という評判の反面、生涯、ついに自分の本棚はもたず、積んドクだけだったようだ。「なぜって? さあお金がなかったからでしょう」と愛一郎氏(長男)はこともなげに答えた。
六法全書は愛読書のひとつだった。そのなかの昭和二十二年に制定された請願法の第三条に天皇に請願できる条項を見つけた。「天皇に対する請願書は、内閣にこれを提出しなければならない」とある。かつて1990年(平成 2年)秋、深夜の水俣からの電話は川本さんからだった。「天皇に請願しようと思う。六法全書にできると書いてある。どう思うかな?」というものだった。慌てて手近かの全書を繰ってみればその通りだった。「谷中村の田中正造ですね?」というと「平成天皇の即位の際のインタビューの時、昭和の御代の水俣病事件についてふれてもらって、ご名代として皇太子さんに水俣に視察にきてもらいたかですよ」「…」「しかしどうも支援の連中には天皇制うんぬんで賛成は得られんですもんなあ」と嘆いていた。今回その筆書きの草案を読むと正気だったことが分る。
川本輝夫さんの一徹な対チッソ、対政府の運動から全共闘運動や新左翼にも飽きたりない一部の支援者から、かれこそ前衛と目されたこともあった。私もその一人だった時期がある。それほどストレートに権力に立ち向かった川本さんがある。しかし、庶民の感覚で物事を決断してきた氏には、天皇制信奉ではなく「なんかと言ってくれ」という新天皇への“さし”の感情でしかなかった。かれの戦いの原点は正義のため、討ち死にを恐れない情動ではないか。前衛でも後衛でもなく、庶民の悪戦苦闘の一代だったと思うのである。