水俣と私 パンフレット ルサス映画祭(フランス) <1999年(平11)>
 水俣と私 パンフレット ルサス映画祭(フランス)

 水俣は日本列島の最西部の島、九州の南部にある町です。温泉と豊かな漁場で知られる水俣にチッソ会社が進出し、ここにいわゆる企業城下町を作りました。この会社は第二次世界大戦に向けて、陸海軍の緊密な庇護のもとに成長した軍需会社でした。植民地であった朝鮮半島に東洋一の大規模な朝鮮チッソを作り、日本最大クラスの重化学産業となりましたがその基礎は水俣で作られました。私たち世代にとってチッソの名は知らなくとも、扇形の日の丸印のトレードマークには馴染んできましたし、その主製品である肥料、化学薬品、火薬、人造繊維などで大きな恩恵を受けてきたものです。チッソの技術は戦後の化学工業をリードし、チッソは日本の産業を指導する政府、通産行政の強い庇護を受けて発展してきました。その工場のアセトアルデヒド工場からの水銀流出によって、1956年に水俣病が引き起こされたのです。
 水俣病はその発生当時から、死亡率が高く、またその疾患は現代医学を以てしても治癒不能であること、その神経障害は患者を終生苦しめる疾病であることは分かっていました。しかしそれがチッソの有機水銀が原因であることは10数年間確定されなかったのです。漁場破壊に抗議する漁民闘争や患者も救済を求める行動は弾圧とごまかしによる見舞い金などで封じこめられて来ました。

 私はこの発生の時期1956年に映画の仕事に入りました。しかし私たちの視野に水俣病が入るまでに10年近い時間が掛りました。それは九州のいわば僻地の一過性の食中毒、あるいは風土病扱いにされていたからです。
 私が胎児性患者、すなわち生まれながらの水俣病患者の存在を知ったのは小さな新聞記事からでした。私はやがてそれが世界の注目を浴びるほどの事件とは知らずに現地でその病児に出会いました。
 胎内で魚を食べた母親の毒を摂取した結果、脳性小児麻痺様の障害を以て出生した彼等は、目は見えず、言葉はかなわず、あるくことも不自由な重い障害をもった子供たちでした。それは偶然ながら私の娘と同じ年頃でした。ひとりの親として、工場の放出した廃棄物によって、人体がかくも犯されるものか、そてを知ったときの驚愕は表現できません。しかもその町でさえ、水俣病のことはあからさまに話題に出来ないほどの隠し事でした。チッソなくしては成り立たない町、水俣はその犠牲者の沈黙の上に、チッソは依然として経営を続け、市民もそれを知りながら患者を幽閉していたのです。
 私は1965年にその胎児性患者をTVドキュメンタリー『水俣の子は生きている』に描き、1971年に裁判に立ち上がった被害者を水俣の環境とともに長編映画『水俣-患者さんとその世界』に描きました。それが本格的な水俣との関わりの始まりです。

 水俣病が世界に知られるようになったのは、1972年、ストックホルムで開催された国連の環境会議からでした。胎児性患者としてこの環境会議の人民フォーラムに出席した坂本しのぶさん(当時中学生)は歩行困難、言語障害の身を世界の報道メディアにさらし、その被害を訴えました。私の映画もこの場からデビューしたものです。公害の原点・「ミナマタ」が世界的な公害反対運動のシンボルになりました。ついで著名な写真家ユージン・スミスと妻のアイリーン・スミスの写真集「MINAMATA」(75年)が発表され、更に広く世界の関心を呼びました。世界的に見て、70年代は有機水銀をきっかけに農薬、DDTやベトナムの枯れ葉剤につかわれたダイオキシンなど自然界の生態系汚染への脅威に目覚めた時代でした。水俣病は人類の危機としての警告性をもっていました。しかし、それが日本に於いてTVや新聞メディアで十分に果たされたかは疑問です。
 日本では戦後復興が急ピッチに進み、海岸線の埋め立てを主軸に、いわゆる「列島改造計画」の名のもとに環境破壊が行われました。産業構造が鉄鋼、石炭にかわり、重化学工業、石油工業やプラスチック素材の時代へと転換していく時期に水俣病は発生しました。
 チッソは医学者の水俣病の原因追究を絶えず牽制し、資料の提供を拒み、非協力でした。政府も廃液の放流禁止などの措置を怠り、水俣病患者の増大を許したことではチッソと同罪でした。

 私が水俣病に初めてカメラを向けてから水俣との関係は以後34年に亙っています。しかし私の映画が電波メディアで放映されたのはこの10年ほど前からです。“国営放送”であるNHKはもとより、民間放送TVも私の映画を取り扱いませんでした。多分TV番組としては長編であったことに加え、被害者側にたって左記品の基調が反資本、反体制的であったためでしょう。
 水俣病は世界にその名を知られているとはいえ、日本でもその実態は広く知られているとは言えません。水俣病を生んだ水俣ですら、すでに水俣病を知らない若い世代が登場しています。祖父母の時代の遠い話になりつつあります。しかし、今日でも水銀による海洋、河川の汚染により世界各地で水俣病の発生が跡を絶たないことは衆知の事実です。
 水俣病は化学工場の垂れ流された有機水銀が、自然の中の生態系の食物連鎖により濃縮され、主に魚介類を食べた生物…水鳥、猫、そして遂には人間を殺傷した食中毒事件ですが、これが風土病や伝染病、遺伝性疾患と誤解され、多くの社会的な悲劇を生みました。たとえばいまですら水俣生まれの青少年の就職や結婚・縁談に差別を受ける構造が根強く残っています。まして患者の場合、いまなお差別や疎外に苦しんでいるのが現状です。

 私はこの間に15作の水俣病映画を発表してきました。しかし意識的に連作したわけではありません。水俣病に接するまで、医学的映画にもましてハンディキャップのひとびとをテーマにした映画は作りませんでした。いわば社会的テーマ、反体制的な事件を扱ったものが主でした。そして30~40才台の働き盛りに水俣病と出会いました。一作で終わるようないテーマではないとは思っていましたが、このように多作することは予想しませんでした。
 裁判闘争の局面を描いた作品から、直接チッソと対決する患者闘争の新展開を追い、さらに医学的視点からの『医学としての水俣病-三部作』、その後は世界的な広がりや水俣病への関心の多面的な発展を追い、結果として連作となりました。その都度、水俣のひとびとの心理的なある種の要請を感じて製作したものです。しばしば「水俣の土本」と言われますが、水俣病専門の記録映画作家のような受け取られ方には抵抗を感じます。自分としてはドキュメンタリーの魅力にとらわれて作ってきたにすぎないからです。但し、この継続的な映画の仕事から水俣病の歴史の残し方に私の興味が注がれていることはいうまでもありません。
 この10年は水俣に関し、映画より映像展示のための記録活動、現実の社会的アクションに参加することが多くなりました。たとえば94~96年にかけておこなった水俣東京展などに水俣病患者の遺影 500柱を集める仕事や、99年の胎児性患者の連帯のための洋上ツアーの実現などがそれです。が、これらは直接に映画とは関係ありません。ただ、水俣病の記憶を残す運動の総体には寄与し得ました。

 水俣の地に立ったひとは誰しも、その優美な景観に心を奪われます。この自然を前にして、あまりも逆説的な悲劇を語り続けるためには、水俣の記憶をどう残すかです。その作業に終りはあり得ません。それが映画であるか、あるいはアクションであるかはいま分かりません。いずれにせよ、私は今後も水俣を見続けるつもりです。
 以上