映画「偲ぶ・中野重治」をつくるまで 「告知板」 12月20日号 庄建設
中野重治さんの死を知ったのは、8月下旬、天草下島の深海町の宿100円入れて2時間点くテレビの前で夕食前の焼酎を仲間と酌みかわしているときだった。
私が最後に中野さんの声をきいたのはその年の3月、『養護学校はあかんねん』という私も少しはかかわった映画の試写の案内を電話で申し入れたとき,中野さんは「眼がわるくなって、テレビも見ないように節制しているので、わるいがいけないとおもう」と詫び声でことわられた。
しかしその声はまだ張りもあり、決して訃報の来る日を予想させるものではなかった。
宿でシュンとなった気持を立て直し,弔電をうつことにした。あと旅は十余日残っていたからだ。しかも最後の旅程は中野さんの故郷福井の若狭の原発地帯を歩くことだった。
「中野さんについて私は”知る”とまでは言えない付き合いだった。ただ『水俣―患者さんとその世界』を見て批評をいただき、ついで『不知火海』の試写もみてもらった。中野さんが「映画雑感・素人の心もち」の文章で語られたわすれ得ぬことばから、私の映画に正直な採点をしてもらいたいと思った。真物とにせもの、いささかの論点の移動もゆるさないその鑑識眼に半ば畏怖しつつ,半ば後輩として教えを乞いたい気持がたえず私にはあったからだ。
『不知火海』はまえの『水俣』より進みましたね。アジテーションのない話だからむつかしかったでしょうが,それだけ深くなった」といわれ、嬉しかった。そしてのちに、折りにふれて、友人に私の映画をみなさいと口づたえしておられたと聞いて感謝した―それだけというか正確にはそのようなお会いのしかただった。
9月の日本海の海岸線をたどり、高浜・大阪・美浜・敦賀と四大原発をしらみつぶしに見、その周辺漁村の人びとに話しをきかせてもらいながら、更に、越前海岸や九竜川口にかけて漁村を視覚に納める旅をしながら、私の追悼のこころをどうあらわしたらよいかを考え、映画でその告別をのこすのが実は一番いいのだが…とは思いつつ、しかしもう間に合わないだろうとひとりぎめにしていた。帰って新日本文学の事務局の谷口さんに電話すると、それはあす9月8日のひるからという。
私は間に合ったことが奇縁に思え、次々に仲間の映画人に電話をかけ、助監督の西山正啓君にフィルムを買いに走ってもらった。
葬式の映画記録とは何ぞやといわれるかもしれない。しかし1929年(昭和4年)山本宣治の虐殺にあたり、その葬儀をとったフィルムがあると聞いている。スチール(写真)だけ見たが、若き日の革命家が当時着物を着たものもありハンティングを眼深にかぶったものあり、恐らく特高にとりかこまれての葬列でもあったに違いない。よくぞ撮り残してくれたものと当時の映画人を偲ぶことができた。
しかし私が5年前、神山茂夫氏の死に際し,映画をとると決めたときは趣きは全くちがう。別に権力の危険はない。しかし、ある党はついに一人の参列もないだろうと聞いた。その数ヶ月前関西の党長老Tさんが死んだ時、二千余人でその死をいたんだという。路線のちがいはあれ、ともに獄中をたたかった革命家の死、一回しかない葬いに対し、非礼にすぎると思った。歴史の短い尺度までいま人間の革命への寄与を全人間的に抹殺できるのか―という根本的な疑問でもあった。
そして映画『告別・神山茂夫』を若い仲間、小池征人君、大津幸四郎君他、いわゆる水俣スタッフで作った。今回も思いは同じであり,更に意識的な仕事としてとりくむことにした。この映画で映像資料としての保存だけでも果たせればいいとした。
幸い鈴木志郎康,高岩仁、小田博カメラマンで三班で編成し、『東京クロム砂漠』を元アテネフランセの若いグループが演出を分担しテープををまわしてくれ、ほぼ全記録を撮る事ができた。
幸いにもというか、生前,中野氏がある神山氏の告別式でのべた弔辞のシーンが私たちの手中にあったので、この映画の冒頭に位置させ、7年前NHKが採録していたみ発表の中野さんによる自詩朗読のLPがみつかり、それを納め,中野さんを偲ぶ映像・音声としてこれに加えることができた。
弔辞をよんだ人びと、友人代表の佐多稲子さんらはすべて言葉を選びぬくひとであったし、生前の親交と同世代の代表者たる中野さんとの関係を結んでいた石堂清倫、臼井吉見、本多秋五、国分一太郎、宇野重吉、尾崎一雄、山本健吉らの選ばれたことば,期せずして中野さんの像を改めて結ぶものとなった。それが映画『偲ぶ・中野重治』だ。
ひとの一生は棺をおおいてはじめてさだまるといったことばがあるが、なかなか、死んでもきまらないのが今の世の中であろう。死が聖化も浄化しおえるものではなく、その一生の仕事と生き方が私たちに何を告げているかを学び切るのは残された私達自身の問題であろう。高校・大学時代からマルクス主義者としての仲間であった老友石堂清倫氏は私達にポツリといわれた「中野が死んで、ある偉大は文学者、読本にものってなじまれる一詩人としてのみ後世にのこされたら、中野にふさわしくない。革命を思いつづけた中野としてのこってほしい」なるほど50年余りの友のことばとして胸に沁みた。
映画はやはり70万円近く実費がかかる。それを製作委員会的カンパで作るのは、理屈抜きにはばかられた。私の発起心を直接理解してくれた伊丹十三、栄田清一郎氏をはじめ、青林舎の高木隆太郎、庄幸司郎さん、他の私の身近な友人の浄財をもとに、有志の金だけで作れるように物事は動いた。深く感謝するとともに、中野さんを偲ぶ心の篤さを知らされる。
77歳の中野さんと50歳の私世代とつながっている。しかし若い人びとにも天皇制と闘いつづけたこの老革命家たちの声がつながってほしい。ゆえに『偲ぶ・中野重治』(55分)をやはり観て欲しいとねがう気持でいっぱいである。(1979.10.15)