「水俣を記録するという事」・桑原史成と私 展覧会図録 桑原史成『水俣』(桑原史成-水俣 報道写真家・桑原史成の原点) 10月 清里フォトアートミュージアム <1999年(平11)>
 「水俣を記録するという事」・桑原史成と私 展覧会図録 桑原史成『水俣』(桑原史成-水俣 報道写真家・桑原史成の原点)10月 清里フォトアートミュージアム

 私は「ミナマタのツチモト」という呼び名を好まない。が、それもなかば頷くものがある。1965年に日本テレビの「ノンフィクション劇場」の番組で発表した『水俣の子は生きている』以来、最新作の私家版ビデオ『回想 川本輝夫』(99年)までに水俣関係の作品を16本作っている。それまで岩波映画などで社会的テーマを好んで追ってきた新人記録映画作家として、本来多面的な関心の持主であるはずの私が水俣に半生を賭ける結果になったのは、水俣病事件の奥深さに惹かれてのことだ。だが、そう易々やすやすとこれに嵌まったのではなかった。その第一作は物怖じに満ちた作品であった。それは後述したい。
 さて、桑原史成の場合はどうだろうか。彼は水俣病写真に関してはず抜けて先人としての表現を残している。ユージン・スミス夫妻の業績はあの有名な母娘の「入浴図」で知られるが、それ以外に印象に刻まれるショットは残念ながら多くはない。何より桑原さんより10年遅れての取材の困難さ(遅れ)は覆いがたいのだ。その点、1960年の取材開始という桑原史成の仕事は水俣病事件の初源に近い唯一の写真として、表現力はもとより記録性としても他に類を見ない。例えば「捩じくれた手」や「生きている人形」といわれた松永久美子の少女像やその眼のアップ、また最貧層の患者家庭の団欒、幼児(女子)患者と家族の介護シーン、そして漁村や往時のチッソの威勢を示す風景など、どれをとってもある典型的表現というに値する写真である。その目配りは水俣の全体像を浮かびあがらせている。
 「もし水俣病が東京湾に起きたとしたら、その解決は早かったに違いない」とよく言われる。中央から見れば、九州行きすら、関門トンネルの存在がいかにも遠隔の感を与えたものだ。まして水俣は当時、九州でも僻地、水俣病発生当時の交通の不便さは県都の熊本大学の医学者たちですら山越えに泣かされた。さらにその水俣市にあっても多発地帯の漁村へはバスもない辺境、鹿児島の境に近い。町へ魚の行商の女籠を運ぶ幅しかないと言ってよい小道を伝ってたどって行き着く浜辺に、汚染されたひとびとの棲み家があるのだ。
 桑原さんの本を読むと、朝の漁家の生活を撮るにはそこには泊まるしかないが、宿はない、患者の家の情けに頼るしかなかった事情が詳らかだ。そのような取材は、すでに名をなしたプロの写真家では可能だったろうか。若々しい野心を隠そうともしなかった弱冠二十三、四歳の彼だからこそ、患者たちに手引きされてその家に寄遇できたようだ。これがいかに彼の観察に資したか、ラッキーだったか知れない。牧歌的青春といっては言い過ぎだろうか。さらに良き同伴者に恵まれた。のちに触れる宇井純さんとの繋がりである。彼等は多分、この遠隔の地に記録・報道の目的を持って訪れただけでも患者や漁民の心をとらえたにに違いない。石牟礼道子の村々への行脚はこの後であったし、まして、支援は皆無だった時代だ。例外は慰問袋をもって現れた少数のサークルの学生だけだった。
 彼らが水俣に入った時期は「水俣病は一応済んだ」とされた時期、1960年である。その前年、1959年暮には、水俣病事件はいわゆる「見舞い金契約」によって“処理”され、いっきに沈潜期に入り、水俣市内ですら辺境の患者のうめきを聞かなくなった時期でもあった。か細いマスコミ取材の線も消え、被害者たちは無言でただただ耐えていた。その折、村を訪れ、カメラを向ける彼の仕事ぶりは、僅かの見舞い金で事足れりとされ、忘却されるのを恐れる患者らにとって、どんなにか頼りになったに違いない。
 私は彼に遅れ、1964年に水俣に入るのだが、写真青年桑原氏に寄せる親愛の情の根深さは推察された。「クワバラ君」は駅前の写真屋のあるじにも知られていた。
 1962年、彼の写真展が開かれるや、水俣病をその細部まで描いた、として一部のひとびとの間で評判になった。同じ時期、桑原史成とよく現地調査を組んだ宇井純のこつこつとした調査記録は地味だったが、桑原さんの仕事は社会的な評価を受けた。実は私の水俣病への関わりの手引きも彼に負うものだった。35年前の話である。
 1964年冬、私は水俣で明らかになった胎児性患者をテーマに企画をつくったが、参考資料は極めて少なかった。あったとしても熊大の医学者、研究者の手元にありそうなのもばかりで、視覚的な参考書籍は皆無、ただ手に出来たのは彼の写真集のゲラ刷りだけだった。一見その強烈さに圧倒され、彼の取材の粘り方を聞いて「これは短時日で撮るテレビ取材ではとても適うものではない」と萎縮してしまった。ただ、その胎児性患者が奇しくも私の娘とほぼ同じ生年月日であることから、娘の様子と嫌でも比べることになる。写真でみるとかれらの発達不全は一目でわかる。幼児性もあらわである。こちらの子供が“健常者”であることが気が引けた。桑原史成にはその時から私にとっては格別の先輩であったのだ この『水俣の子は生きている』を今年になってやっとビデオで見直したが、その主役は水俣にボランティアを志願して行く健気な短大卒業まぢかの女子学生の自己研修の記録であって、ずばり、胎児性患者を描写しているというには程遠かった。たしかに、それには今も生きているかれらの“幼年時代”がうかがえ、またテレビ記録史上、はじめて小児性患者とともに胎児性患者が登場しているものではあるが、臆病な作品である。しかしこの中で、私にとって忘れることの出来ないシーンがある。それは桑原さんの写真がらみのものだ。これはこのドキュメンタリーの核心をなすシーンである。
 こういう話である。熊本短大のサークル「水俣病の子供を助ける会」が当時極めて珍らしがられる程、目立つ支援・慰問活動を行っていた。その地方紙・熊本日日の記事に眼にしたことから企画は出発していた。映画の導入部として熊本短大の部室の描写から始まった。主役西北ユミさんの独白体をナレーションにしたものだっだ。その街頭カンパの準備の様子からカメラをまわしたのだが、その街宣の目玉は大きく伸ばされた桑原史成の写真パネルだった。恐らくかれの写真が運動的に使われた最初だと思われるが、どの子供の肖像にも目張りがされていた。それは学生諸君の意気の高揚のなかにあって実に不自然で違和感のあるものだった。あの著名な「生きている人形」の眼のアップにビニールテープがべっとり貼られていた。桑原さんのピントのシャープさは抜群と私は思っている。とくに眼のクローズアップに生かされている。にもかかわらず、それが殺されているのだ。
 勿論当時でもプライバシーへの配慮が写真やテレビで為されたいたことは先刻ご承知であったつもりだが、この目張りを見過ごすことはできなかった。私自身のその後の取材を左右するほどの重大な問題だったからだ。被写体である彼等にその存在を恥じる一片の理由でもあるのか。じつに直接に映像的対話が感得できる作品だけに、汚された気がした。
 かれらの支援や介護に立ち向かおうとする、善意で社会的な行動がこうした目張りと矛盾していないか。写真そのものへの冒涜であると同時に、水俣病問題への意識の在り様として、間違っていると思った。そこで、その目張りのテープを剥がし、もとの写真の眼をアップで現わした。このシーンは一編のラスト近くに位置付けられている。
 私はひそかに私の撮る映画では、この「プライバシー」の問題は突き詰めなければならないと考えた。私の作品でそれまでも隠し撮りは一切していない。この『水俣の子は生きている』でその思念をさらに固めた。桑原史成のおおらかな作家精神を写真から読み取ったからでもある。
 その後も彼は水俣病事件の節目や胎児性患者の成長に合わせて取材を続けた。例え何年ぶりの取材であろうと、患者たちはいわゆる「井戸を掘った人」として彼を処遇をしている。この40年に及ぶ、彼の「水俣の写真家」としての連続性は極めて自然なものだ。だがその“元祖・水俣表現者”とも言うべき彼すら、最近、胎児性患者の撮影にためらうようになったと聞く。とくに96年の水俣病の最終解決と称される決着以後、「もう静かにしておいてくれ」という患者一般の風潮が強くなったからだ。私の映画( 8mm記録を含め)にも同様な支障が生まれるかも知れない。だが水俣病問題は残念ながら終わっていないのだ。
 チッソの水俣病関係の累積赤字は1500億円。その始末が計画的“チッソ倒産”に決着する可能性は年ごとに強まっている。近年の銀行や証券の大型倒産劇を見れば、チッソが何時、可憐な声で倒産と言い出してもおかしくない。かつて1973年、未曾有の患者の闘争によって獲得された補償体系(いわゆる年金、医療費制度)が一気に崩れることもありうる。その時、あと人生の後半を生きる胎児性患者(平均42歳)の“生涯設計”はどうなるか。これは彼等自身がまず声を上げるほかない。支援もそこから始まるであろうからだ。
 桑原史成氏は彼等のほぼ一生を記録に残した稀有の写真家である。すでにある種の社会的遺産である。ある内発的な意思で水俣病を追う私にとってもこれからの表現をどう発展させるかの正念場といってよい。
 水俣に見学に訪ねても「人間(患者)が見えなくなった」との失望の声を聞く。「見えないものをどう撮るか」が問われていくだろう。桑原さんとの強い連帯感を自覚しない訳にはいかない。
 (99,8,15)