庄幸司郎の残した映画 『追悼庄幸司郎一平和憲法とともに』 5月17日 『記録』編集部 アストラ <2000年(平12)>
 庄幸司郎の残した映画 『追悼庄幸司郎一平和憲法とともに』 5月17日 『記録』編集部 アストラ 

 庄幸司郎さん。あなたとのとの付き合いの始まりはあまりに古く、私の青春時代の茫漠とした記憶のなかの一部である。昭和二十八、四月第三回の参議院選挙が行われたときあなたと貴方の先生松本昌次、そして玉井五一さんらと出会いましたそして、短期間だが昼夜一緒に汗を流した。それは革新系無所属の全国区参議院候補、経済学・社会学者平野義太郎選挙の東京の運動員としてだった。日中友好運動をはしらに立候補された平野さんに一番近い立場の運動員は組織的脈絡からいって私だった
 垂れ幕を張り巡らした選挙用トラックで都内を駆け巡った。私は当時日中友好協会の事務局員で、当然のように引っこ抜かれたのだが、編集者志望の松本昌次氏(現影書房)と庄さんらは定職がなかったのか、はせ参じたものだったと思う。すでに知られるように庄さんは松本氏の教え子、年はそう離れてはいない師弟のはずだが、兄弟のように、いやそれ以上に親密であった。松本氏も選挙後まもなく未来社に入りやがて編集長に、そして自称叩き大工だった庄さんも後に苦節を経て建設会社を起こすのだが、当時はみなルンペン青年、お互いに貧しかった。その三人組の行動力はそうとうなものだったが、報酬は最低、ただ飲食費が認められたことがありがたかった。平野候補となれば厭わなかったからだ。
 夜、仕事を終えていっぱいやるのが常だった。それは安いパイカルと餃子、店は新宿東口の屋台(その名も立派な北京飯店)と決まっていた。そこでともかく腹いっぱいに食べ、英気を養うのが楽しみ、松本氏の縦横な文芸批評などが聞けた。竹内巧氏から魯迅に飛んでの氏の縦横無尽の話がつきなかった。そうした松本氏を横にして、庄さんは大声で笑い、よく食べた。その毎晩の北京飯店の夜は楽しい限りであった。酒は痛飲した。
 庄幸司郎さんはあのころから存在感にみちあふれていた。口数は多くなかったが、面魂だけは人目を引いた。選挙後かれは、山村聡監督に起用され古典的映画『蟹工船』(原作小林多喜二)のエキストラで反抗する網子役として働いた。群衆劇だが彼のアップは強い画面で印象的だった。さすがに山村聡だと感服した。まさに適役だったからである。そんな当時が原色の断片として記憶によみがえる。
 その後、仲間はそれぞれに散った、私が映画にはいったのはその三年後だったが、交遊はほとんどなくなった。消息によれば新劇運動をはじめ『常陸坊海尊』や『かさぶた式考』のプロデューサーをしていると聞いて、松本氏と組んでであろうが突拍子もない世界に入ったものだと感心したものだ。しかし本業の建設業も立ち上げ『本棚から住宅まで』と売り文句を掲げ、その手掛けた家のお得意さまの列挙されているのをみて、その人脈に深く松本氏が関わっていると想像しないわけにはいかなかった。
 話は一挙に二十年近く飛ぶ。私は水俣映画で記録映画作家になり、庄さんは異色の建築屋、そして市民運動を手掛け、松本氏は未来社を背負っていた。再会して旧交を暖めたが、ふたりして「水俣映画の土本とは君だったか」驚かれるほど消息はしらなかったようだ。このころから庄幸司郎さんとのつきあいは一挙に深まった。私もプロデューサーの高木隆太郎もつぎつぎに手狭になった家の増改築をたのんだ。支払いは長期ローンを組んでもらった。それがどんなに家人の喜びをもたらしたか知れない。やがて、映画の編集室も彼の斡旋で手にいれた。編集機とフィルム棚に炬燵の居間という殺風景なへやで水俣映画のほとんどを編集したものだ。そこからが映画に縁が強まる。庄幸司郎さんには青林舎のどこが気にあったのか、親身で経営の手助けや、資金調達の援助にまでいわば深入りしてくれることになった。
 その後は庄さんの文化運動、スペースしょう(映画上映)で付き合い、やがては窮状に陥った青林舎を介助するようになり、代表取締役になって財政立て直しを買って出た。その青林舎の流れの会社シグロの代表兼プロデューサーになるのはその10年あとである。
 70年代80年代にかけてのかれの市民運動の総量ははかりしれなかった。告知板は毎月の市民運動の紹介の場となったし、雑誌『記録』は私たちの映画のシナリオを掲載した。そして沖縄、在日のロックバンドと組んでの草の根運動が中野、すなわち庄幸司郎さんを軸に回転していた。
 中野の繁華街にじんじんという居酒屋ができた。映画には酒を飲んでの談論風発がつきものだが、度々そこの二階は映画人の溜まり場になった。企画会議風の話しがいつしか映画論になり、これから作りたい映画の細分にまではってんした。庄幸司郎はときにそれをリードした。
 『みちことオーサ』『うりなら ソウル-パリ-東京』と自らプロデューサーとかってでての作品作りがそのなかでうまれた。李應魯(リウンノ)・朴仁景(パクインギョン)夫妻絵画展』がもとになって映画は生まれた。
 一九八〇年代後半に私は彼に乞うて、アフガニスタンとの合作映画の製作者になってもらった。これが私の場合、かれと四つに組んだ唯一の映画といっていい。
 そもそもアフガニスタンへの関心は十年来、その記事のスクラップ作りで育ててきたものだ。一九七八のいわゆる四月革命による“革命派”の登場はソ連の軍事介入に後押しされたもので、その“正統性”は私にも疑問を残した。ソ連のこの行動には困惑しかなかったが、あらゆるマスコミと西側報道一色の情勢には危機感があった。日本のメディアもいわゆる反政府ゲリラの“聖戦”に沿うものばかりだったが、へそまがりな私はもう一つのアフガニスタン、いわゆる人民民主党政権下の社会、ひとびとの暮らしに眼を向けた。数百万の難民が出た一方、千数百万が内戦下の生活を営んでいる。パキスタンとイスラム諸勢力のほかひそかに中国の武器も反政府ゲリラを支えていた。ソ連はアメリカのベトナム介入の泥沼化と同じ道に転落しているのが多くの国際(西側)世論であったが、それも確かめるこの眼で見たかった。そのじかの情報なしには判断は下せないと思ったからだ。
 映画の下調べに、八五年、八六年と二度にわたってアフガンに行った。首都カブールにしか行けなかったが、私はいくつかの驚きに遭遇した。その最大のものは庶民の暮らしぶりである。病院、大学は無料であり、パンの大工場は盛大に操業し、町中や機関では婦人のチャドル姿は少数派だった。なにより子供に一人の物乞いもいなかったことだ。アフガンへの往復の中継地インドのニューデリーでは無数の物乞い少年と婦人に悩まされたが一歩越えたカブールではその悩みなく街中をかっ歩出来た。それは快かった。
 こんなエピソードもあった。八五年、調査用撮影で革命記念日のパレードを撮ることにしたがバッグが手足まといになり、とっさに近くの少年にそれを託して、私はカメラを手に駆け回った。見ず知らずの少年は私のあとをついて回って、私のバッグを守ってくれた。あとで考えて、よくも“紛失”を免れたと思った。聞けばかつてのカブールでは考えられないことだという。これは一体何だ。“社会主義”化わずか数年で如何にしてこのようなムードが生まれたのか。感覚的な決定だったが、映画化の根拠はそれしかなかった。
 庄さんをプロデューサーとして頼りにしたのはその一年後だった。「面白いじゃないか」と庄幸司郎流の即答を得た時は一瞬、耳を疑った。「…ソ連はそれなりにアフガンの暮らしを支えているよ」という。アフガニスタンの内部の情報皆無のなかでのかれ独特の勘による決断だった。庄さんはソ連大使館員にも友人を持っていたようだ。
 かれはソ連軍の撤退、国民和解路線のアフガン政府の方向を見定め、自分からアフガンに飛んで、アジアアフリカ人民機構主催の会議の場で日ア合作映画の企画を発表した。これが二年後完成した長編記録映画の出発点になった。かれなしにはこの映画はなかった。
 ちなみに現代のアフガニスタンの素描は皆無である。あの当時から“聖戦”を掲げたゲリラ各派のアフガンでの内戦は続き、戦火でカブールほか各都市は荒れ果てた。かつてのカブールはこの画面にしかない。合作ゆえアフガン自身の映画でもあるこの作品は唯一のあの国のドキュメンタリーにもなっている。九二年、元宗主国の英のBBCで放映され、反響を呼んだが、故なしとしない。映画プロデューサーとしての庄さん、その残した映画の業績として『よみがえれカレーズ』(記録社・シグロ作品一九八九年作品、共同監督熊谷博子、アブドゥル・ラティーフ)を記憶に残して頂ければ幸いである。
 庄幸司郎さんありがとう。そしてさようなら。