アナーキーな東京の記録『ドキュメント路上』湯布院での公開に寄せて 「第3回ゆふいん文化・記録映画祭」上映用パンフレット 4月2日 ゆふいん文化・記録映画祭 <2000年(平12)>
 アナーキーな東京の記録『ドキュメント路上』湯布院での公開に寄せて 「第3回ゆふいん文化・記録映画祭」上映用パンフレット 4月2日 ゆふいん文化・記録映画祭

 この映画はいわゆるオクラ入りの未公開作品である。今回は特別上映となる。製作は1964年であるから三六年を経ている。撮っていた当時はただ細密に交通戦争を描くことに意を尽くしていたつもりだったが、いまとなっては再現不能な「あの時代」の記録になっている。例えば、東京のどまん中、銀座、赤坂、渋谷、新宿の交通のアナーキーさは想像を絶する。都電は撤去されその道路が地下鉄工事で掘り返され、材木や鉄板で覆われた路面である。鉄柵や工事中の機材で狭められた路上に人がひしめく。急速な車社会の到来に受け皿となりえていない都市が悲鳴を上げている。
 大きくいって都市改造は国際的なイベントにせき立てられて進んできた。新幹線も高速道路もまだ完成していない時期である。この映画は次の年に東京オリンピック、その数年後の大阪万博という世界的なイベントを前に、しゃにむに都市改造に狂奔していた時期に作られた。その頃、交通戦争で死者は一万二千人をこえ、負傷者は三十一万人にのぼった。この映画はそうした非常事態の歯止めの役をはたすものとして企画された。警察庁の全面的後援を約束されたのも当然である。だがそれがドライバー目当ての教習映画だったら、私はこの映画を作れなかったろう。当時、車の運転もできない身では、そうした映画は不得手だからだ。結局交通事故の現場としての東京そのものをタクシードライバーの目を借りて見る、いわば都市と人間の葛藤のドキュメンタリーにした。
 告白すれば交通安全がどうすれば守れるかなど当時も答えはなかった。ただ、ロケハンでタクシーの助手席に数日乗った経験から、運転者の過度の疲労を共有した。私は胃痛に襲われた。排気ガス、騒音、振動、標識の過多でひしめき合う路上。それは昆虫の標本つくりに使う、毒を底に仕掛けた瓶を思わせ、あたかも東京全体がなにか巨大な透明なガラス瓶でできた殺虫装置に見えた。事実、光化学スモッグが発生したのもこの頃である。
 当時は立体交差が大阪駅前に初めて登場しニュースになった時代である。東京はまだ「平面交差」だった。人間の足もとが軽んじられた。歩行者天国といった発想はさらにその数年後のことである。平らな都市空間に車と人、車と車の戦いが果てしない。そうした路上の描写を通じて、アナーキーを極める都市東京を描いた。交通事故から身を守るには、過度までに神経を研ぎすませ、自衛するほかないと言ったつもりだ。それでは警察庁交通局の意に背いたことになる。PR映画としてはオクラ入りは運命と甘受するほかない。
 ところで交通事故の加害者は常に運転者だが、映画の主人公は何時、加害者となるかも知れない日々を動物的な本能で送っていた。運転者の神経疲労は映画撮影で倍加した。スタッフも同様、消耗した。ロケ中に、スタッフの内、三人が事故で重軽傷を負った。その恨みもあって、加害被害の複眼で重層的な映像を執拗に重ねることになった。解説、説明はすべて排した。言葉を重ねて、かりにも“胃痛映画”になることは避けたかったからだ。
 カメラマン鈴木達夫は渾身の仕事をした。最近年、欧米の映画祭などで上映された。字幕なしでも十分にその観賞に耐えたらしい。アメリカの女性監督バーバラ・ハマーはこの映画を「日本のジカベルトフ」と評した。ジガベルトフの『カメラを持った男』(無声映画、1928年)に共通する映像感覚が、彼女をしてそう言わしめたのであろうと思っている。