丸木俊さんと水俣 季刊『水俣支援東京ニュース』 第13号 4月号 東京・水俣病を告発する会
2000年一月十三日、丸木俊さんの危篤を知ったのは、その死の数時間前、朝日新聞浦和支局からの電話でだった。とっさのことで衝撃をうけながら、つい「しかし見事な一生でしたね。ご本人は悔いを残す事なく亡くなられたと思いますよ」と言ってしまった。それは半年前に丸木原爆の図美術館で一目お会いした時の娑婆気のすっかりそぎ落とされ、いかにも気ままになられた様子をとくと拝見していたからである。いつもいくばくかのサービス精神と少し力んだ物言いのあった俊さんだったが、もう枯れ切っていた。姪の養女ひさ子さんと絵本『どんぶらこっこ すこっこ』を描いたあと、いわば静養の日々であった。晩年、丸木位里なきあとは好きなだけ花や子供(童画)を描きたいと言われていた、そのままのお姿だった。享年八七歳、ちなみに位里さんは九五歳で没、共に大往生ではないか。
丸木位里さん、丸木俊さんの長い画歴のなかで水俣をテーマに作品にとりついておられたのは二十年前のことだ。正確にいえば丸二年を『水俣の図』と、その第二部とも言うべき『水俣・原発・三里塚』に費やしておられた。私はその制作過程を追って映画『水俣の図・物語』を作った。そこでお二人の渾身をこめた制作ぶりを見た。世間的には余り知られることの少ない『水俣・原発・三里塚』に言及するのは、同じ水俣の絵でありながら、前作『水俣の図』と違って明るく澄んでいたからだ。胎児性患者の女性ふたりに赤ん坊を抱かせた大柄な二組の母子像であった。絵柄の上では半原発の群衆の大太鼓のシーン、三里塚のモッブシーンと三分割された画面であったが、二人の母子像は量感ゆたかで、水俣の生命のよみがえりを表現していた。見比べれば『水俣の図』は徹底的に暗かった。「水俣のひとが見たらどう思うか」という危惧が時折撮影している私を襲った。肝心の水俣の観賞者が眼をそむけはしないかと思ったほどだ。
制作に先立って、私たちは水俣映画を見せ、ユージン・アイリーン・スミスや塩田武史などの写真集を揃えた。そこに載っている映像が、まるで模写に近い描法で大障壁画に書き込められている。その群像は丸木俊さんの筆で克明である。私にはこれは誰々と言い当てることができた。だが“水俣の記憶の浮上”といった形で描かれ、模写といったものにはなっていなかったが、その実在への重視があからさまであった。「ああ、これは写生に代えているのだ」と思った。写生(デッサン)は俊さんの一番大事にしているものだ。
十四部にわたる『原爆の図』の連作はそのほとんどが写真も残されなかった悲劇への追想である。想像の極限で描かれているが、その核になる人体にはモデルを前にしたデッサンが窺える。自分自身すらはだかになり、位里さんのヌードのスケッチもした。丸木俊さんにはスケッチが画想の基本に牢固としてあるのだろうと思う。
「明るく描こうと思った。あの水俣の風景だけで水俣病事件を描けないかと思ったが、やはり水俣病は群像でえがくことにした」と位里さんはインタビューでのべている。俊さんは「どこかで水俣のよみがえりのイメージを描かなくちゃとおもったけど、徹頭徹尾、暗いものになった」と憮然と答えている。本意ではないがそうなった、ということだ。
彼女はスケッチの用意をして水俣を訪問したのは確かだ。だが患者訪問の最初に胎児性患者諫山孝子さんの三十分に及ぶ痙攣を目の当たりにして、以後、いっさい写生を放棄してしまったのだ。既存の映像や写真に頼ったのはそうした欠落への俊さんらしい押さえであったろう。
丸木位里さんの墨絵は水銀ヘドロで絵を覆った。それが『水俣の図』だった。映画はその完成で終わらず、その次の絵へのふたりの格闘を追うことになった。次の水俣訪問で、俊さんはスケッチの機会を得た。明水園や漁村の患者に色紙で肖像を描いては贈呈したのだ。これが心打つシーンになったが、俊さんには写生が大きい。そのなかで坂本しのぶさんと加賀田清子さんがさきに触れた二人の母子像(天女にもみえる)になった。俊さんはここではじめて水俣のよみがえりを描けたと思われたろう。その二年の画業は「きつかった」と後年俊さんはぽつりと漏らされた。真面目人間だと痛感した。しかしお二人の仕事はいつもそのような苦吟の連続だったろう。俊さんの死に“戦士の休息”という言葉を重ねたい気がする。いまはこころからご冥福を祈る次第である。
(2000,2,29)