学校だった岩波映画と「青の会」 『NFCニュースレター』 35号 1、2、3月号 東京国立近代美術館フイルムセンター <2000年(平12)>
 学校だった岩波映画と「青の会」 『NFCニュースレター』 35号 1、2、3月号 東京国立近代美術館フイルムセンター

 私がここに籍を置いたのは1956年(昭和31年)である。この前後に岩波映画はいまも代表作とされる羽仁進の『教室の子供たち』『絵を描く子供たち』、高村武次の『佐久間ダム』の連作、京極高英の『ひとりの母の記録』、吉田六郎の『蚊』『かえるの発生』、瀬川順一、伊勢長之助の『日本の鉄鋼』(英語版)などがあいついで出されていた。創業から六年、岩波映画のもっとも高揚した時期であったろう。私が岩波映画に入れたのもこの時期、大企業のPR映画の受注増から働き手が求められていたからである。
 作家たちも外部から契約者としてきて作品を作った。前記の京極、瀬川、伊勢のほかに渥美輝男、岩佐氏寿、桑野茂、竹内信次、柳沢寿男といったベテランが岩波映画育ちの撮影部や演出助手の育成の役割も担わされていた。そのほか独立プロ育ちの若手の人材も多かった。藤江孝、富沢幸男らがそうだ。共産党員やシンパがレッドパージによって働き場を失い、おのずから集まったためか、徒弟的で封建的な古い活動屋気質とは無縁な進歩的なひとびとであった。このことは職場の雰囲気を風通しの良いものにしていた。
 創業者の吉野馨治や小口禎三はカメラマンの出身であり、雪博士といわれた中谷宇吉郎博士と「霜の花」「大雪山の雪」などの製作で繋がり、その中谷研究室が岩波映画の母体になったことは知られている。この創業者の吉野さんらは新人を育てて映画製作に新しい作風をうちたてようとした。羽仁進、羽田澄子(『村の婦人学級』)、時枝俊江(『町の政治』)など演出部、そして撮影部の小村静夫、藤瀬季彦、加藤公彦ら新人を吉野さん自ら教育した。どんどん現場に出して、促成し二、三年で演出、撮影の責任を持たせた。そのためいわゆる映画監督がオールマイティーを持つこともなく、スタッフは皆横並びのようにふるまった。これらが相俟って、岩波映画はある種の自由さを持つ事ができていた。 私が入って最初の仕事は八幡製鉄(現新日本製鉄)のPR映画の製作進行だった。いわば世話役全般の仕事だった。スタッフの出入りのたびに列車の乗車券の手配、宿の割振り、食事の世話から現場への送り迎えなど、撮影現場とは離れて忙しかった。
 『鉄』という映画で監督・撮影は瀬川順一さんだった。彼とは酒を飲むのに付き合って、映画の初歩からの手ほどきを受けた。彼は劇映画のカメラマンだった。その撮影技法を記録映画に持ち込んだ。素材の鉄がそのカメラワークによって劇の主役のように引き立った。真っ赤な鉄板が引き伸ばされ薄板になる過程が移動撮影やトラックアップで撮られる。瀬川さんからはその撮影の呼吸にまで立ち入って分析を聞くことができた。私にはまさに現場が学校でありスタッフは教師に思えた。
 岩波映画全体に学習の気風があった。しばしば作品を選んで勉強会が開かれた。その監督を囲んで現場報告のような臨場感ある討論がなされた。『ひとりの母の記録』などは記録映画でありながら、農家の家族を集めた素人を使った作った劇映画ともいえる作品だっただけに、そのフィクション性を巡って、若手の中から相当に批判もだされ、熱い議論をくりかえした。作品が到達した地点をみんなのものにしたいからである。そうした合評会が普通に行われたことは岩波映画の特徴であった。先輩批評がオープンだった。
 しかしやがてPR映画にもの足りなさを感じるものも出て来た。人間が描けないことが不満だった。PR映画に登場する人物は多くの場合、掘り下げることには制約があった。
 「何でも良い、人間を撮りたい」という要求に答えたのは人間国宝クラスの人を追った『年輪の秘密』シリーズや後に『地理テレビシリーズ』といわれる各県の探訪ルポであった。私はその監督に起用され、テレビ番組ながら記録映画の習作をつくるようになった。これはほかに東陽一、藤江孝、神馬亥佐雄、秋山衿一ら新入社員や新人契約者の活動の舞台になった。カメラも清水一彦、根岸栄、鈴木達夫、奥村裕治など気鋭の若手ばかりだった。だがテレビでは一人前とは見なされなかった。しかし制約が少なく自由に作れることから私はTVシリーズに没頭することができた。
 一方当時、若い仲間の内、先頭をきっていたのが黒木和雄である。『海壁』『ルポルタージュ炎』といった電力の建設記録、ミュージカル仕立ての『恋の羊は海いっぱい』、人間描写を機軸にした『わが愛北海道』など、PR映画の枠に迫った一作一作が同じ世代のわれわれを勇気づけていた。若い助監督や撮影部などの意欲がかきたてられ、同人誌的な研究会冊子が作られたのもこの頃である。そして誰彼の作品を問わず、注目作の場合はラッシュの試写を覗いてその感想をスタッフと討論することもしばしばだった。黒木の作品や羽仁進の『不良少年』の作品分析など活発な談義が起こった。だれもが自分の中にあるものをなんとか映像表現したいと探っていたので真剣だったからだ。
 やがて皆が危機感を持ったのはスポンサーのNGで地理テレビで黒木の『群馬県』、私の『山梨県』『東京都』が相次いでオクラになったことだ。これに刺激されて自然発生的に先にあった研究会や助監督部、撮影部、録音部、編集部の有志が結集し、黒木、私などを加えて混然たる集まりになった。それがのちに「青の会」と呼ぶ研究会に発展したのである。これは会則も規約もない全く出入り自由な会で、専ら新宿のバー・ナルシスに陣取って酒を飲みながら映画論に耽るのが常だった。
 「青の会」は借り物の討論はしなかった。自前の自作を俎上にしての批評と分析だった。昨日撮ったカットも報告され忌憚のない意見が交わされた。それからゴダールに話が飛び、アラン・レネに惹かれることはあっても自作中心の検証態度は守られた。とりわけ良いカットがどういうスタッフワークで可能だったかといった撮影現場の洗い出しは皆を夢中にさせた。小川紳介、東陽一、岩佐寿弥が論客だった。もっとも私などは呆れられるほど多弁であり、黒木の発言はいつも破壊的なまでに挑戦的であった。この果てしない討論のなかで自分の個性を発見し、自由な発想を訓練していくことができた。岩波映画の伝統的な学習的談論がここに花咲いたともいえよう。撮影、録音、編集の各パートが加わっていることでいつでもいくつかのスタッフで撮影に向かう態勢が準備されていた。ここから黒木は『あるマラソンランナーの記録』、初の長編劇映画『飛べない沈黙』に、小川紳介は処女作『青年の海…通信教育学生の記録』に、私は映画処女作『ある機関助士』『ドキュメント路上』と歩きだしたのである。
 (文中敬称略)