水俣病展は水俣の奥を見せてくれた 季刊『水俣フォーラムNEWS』 No.17、18春号 3月19日 水俣フォーラム <2002年(平14)>
 水俣病展は水俣の奥を見せてくれた 季刊『水俣フォーラムNEWS』 No.17、18春号 3月19日 水俣フォーラム 

 昨二〇〇一年秋の水俣での「水俣病展」は遺影を巡り、患者団体平和会(会長石田勝氏)の展示拒否などの動きで、一時、成り行きをあやぶまれたが、初日まで話し合いを重ね、納得のもとに解決、無事、予定の観客を動員して終えることができた。経過のなかで五百柱の遺影は七十八柱の辞退を見たが、あらたに水俣の開田理巳子氏の追加撮影で十三柱が加わり、四百三十五柱となった。「記憶と祈り」として壁面を飾った遺影群は欠落を隠せないながらも、その独自の祈りの雰囲気はほぼ残すことが出来たと思う。
 一九九四年秋、遺影を収集した時は、翌々年の水俣東京展しか視野になかった。「東京で」という趣旨で遺族に個々にお願いした。これが水俣市でもやると分っていたら、これだけ賛意を得られなかったであろう。今回の企画で図らずも「東京ではいいが、地元の水俣では困る」という一部遺族の本音に抵触した。石田氏の怒りと悩みもこれに尽きていた。
 改めて遺族の了解を取るために、遺族の一族が集う旧盆に間にあうよう挨拶状を送った。辞退者の連絡は以後二か月続いた。そしてその都度確約する旨の返事の電話をした。実は遺族のマナの声を聞きたかったからだ。その声は優しく慎ましく、怒気のかけらもないのがむしろ不思議だった。だが、それが私の知る水俣のヒトであり、耳を通じて私の心が癒された。図らずも今回、辞退者との声の交信を通じて、自分もまた数年前の各戸訪問の時の感触に帰ったのだ。水俣病の奥は深いと改めて思う。この「水俣病展」のお陰で、四百三十五柱の遺族たちの存在が希望に見える。また今も水俣で遺影を集めている開田氏の持続に励まされる。やはり水俣はごとりと一つ変わったのだ。これも遺影の放つオーラだろうか。