書評 考えるための道具としての映画 木下昌明著『映画と記憶』 週刊『金曜日』 431号 10月11日号
映画批評家との付き合いは私の映画生活と同じく永い。私の駆け出し時代、自分の作品を世に問うには、まず映画批評家に認められることだった。それを気にしていた証拠に、私は第一作いらいの批評を殆ど保存している。折に触れて読み直すことがあるが、その批評がぐさりと核心に触れたものは多くない。ある場合には次の予定のため、映画を終わりまで見なかった方が、激賞した文章を書かれたり、また「映画は見なくても、そこそこの評は書けるもんだよ」と笑い飛ばされたこともある。これはまれな例だが、こうした試写会場でのひとびとの一顰一笑までに神経を尖らせる緊張感は映画人なら誰しも経験していることだろう。いまでも「本当に観てくれているの?」と気を揉むことがある。
ごく最近、木下氏と同席した『人らしく生きよう』のシンポジュームで同氏の「僕は同じ映画(ビデオ)は最低二回は見る」という言葉に唸った。「エライ!やはりそうか」と思ったからである。こんな言葉を“映画批評家”から聞いた例がなのだ。
日頃、氏の批評はマスコミ批評の対極にあると考えてはきた。時に首をかしげることはあっても、その論旨にまともな思考が重ねられていることを疑うことはなかった。
例えば氏はイラン映画の発見者と思うのだが、イスラム原理主義に近い1979年のホメイニ師の思想統制のなかにあって、一見、イスラムの教義に添いながら、差別と不平等な扱いにある移民の子供やアフガン難民、底辺のひとびとを描き、民主主義思想を探るといった作家たち(キアロスタミ、マフバルバフなど)の営為を氏の批評から知った。その映画手法は主人公たちの日常のディテールを描き切ることで、無視されがちな人間の尊厳を描く。たとえば『サイクリスト』評などを通じて、私はハリウッド映画の対抗軸となった“イラン映画の世界”を学んだ。(本書の「・・イラン映画の魅力」)。
これもビデオなどの繰り返しの見直しと関連資料の読み込みあってのことだということがこの本の随所に伺える。批評の手のうちをさらけ出したものである。これが良いのだ。
氏は普通の勤め人であり、「批評で食っていない」ところが木下昌明氏のユニークさだ。加えて、氏がある新聞社の校正を三十年余つづけていて、その資料室から欲しいまま(?)にシナリオ原本や関連資料を読めるという。なんという強みだろう。本書「・・戦争表現の虚偽と真実」を書くに当たって引用された諸文献の広範さに注目する。氏が映画論を超えて、史実や記録を駆使して、東条英機や天皇擁護の映画『プライド』や小林よしのりの『戦争論』のまやかしを暴く。ともに現代の風潮を支配するメディア(映画など)だけに、その映画の細部まで検証し反論しなければ意味がない。つまり映画批評と歴史家の仕事を背負って書かれている。私にはこうした氏を単なる“映画的思考の人”というより、「考えるための道具としての映画」といった方法を開拓しつつある人のように思える。私ごとだが、氏の作業に刺激されるのは、私が最近、アフガンを撮った十二年前のフィルムを前にして、それを今に引きつけ“フィルムの中で考える”ことを専らにしているからでもあろうか。
「映画は運動を生む」という木下昌明氏の言葉は簡潔である。
その原点に四半世紀前、「思想運動」集団で試みた「試写室運動」にあったことが本書のあとがきに述べられている。批評が創り手と切り結んだ時代だった。その中から生まれたいわば労働者作家(松原明、佐々木有美氏ら)が、十数年間、その都度撮った 8mmフィルムやビデオのカットを、その批評運動で詳しく見てきたという氏の体験が、今日の氏の映画批評全般の基軸にあるという。それは“思想”の運動だけではなく、組織的な“上映運動”となり、今年、劇場公開と全国百五十か所の自主上映に発展した。『人らしく生きよう-国鉄冬物語』がそれである。知られるように、国鉄労組、馘首者の15年の戦いの記録映画だ。だが、このビデオ映画が短期間にこれほどに波及するとは私は予想していなかった。だがこれを倦むことなく紹介し、評価したのは氏だった。本書「・・きみはこのドキュメンタリーをみたか」はその先見性を伝えていると思う。
ドキュメンタリーを解析し、作家をその先に突き飛ばす類いの映画批評が“少ないこと”を嘆いているだけでは不毛であろう。観客と作家と共どもに、そうした批評家を待望すべきだ。それには自立・自活し、批評にあたり「最低、二回は見る」時間を持ち、受け手として映画を見るに止まらず、そこに時代を読み、次なる時代の鼓動を聞くといった新しいタイプの批評家を期待すべきだろう。氏が映画を見、さらにビデオで見直すというのも、かつてのフィルム時代の批評家にはない方法だった。「映画はフィルムでの上映に限る」といった“常識”も、ビデオの映写機(ビデオ・プロジェクター)の日進月歩の進歩に因ってその垣根が取り払われている。
私は「映画会が19世紀のロシアの詩人たちの朗読会のようなものになろう」と言ったことがある。なかば口からでまかせだが、映画作家と批評家と参集者の渦が見たいのである。そのイメージに浮かぶ批評家にまず木下昌明があるのだ。今後もこうした人の輩出を待ちたいものだ。
(02,9,15)