水俣病患者にとって東京の記憶はママだった。 若槻菊枝作品集『太陽がいっぱい-その人生の軌跡-』所収 初版12月25日
画家・若槻菊枝さんと私の出会いは岩波映画に入って間もなくの一九五六年ごろに溯る。今も盟友といえる黒木和雄が連れて行ってくれたのは歌舞伎町時代のトリスバー『ノアノア』である。かれの言うように文化人の溜まり場であったが、ママは友達感覚で客をあしらうので、すぐに旧知のように打解けることができた。関根弘や工藤幸雄さんなどとは毎日のように顔を合せた。酒乱の気味のある私は時に取っ組み合いに近いこともやった。それでも気に入った客のひとりにしてくれたのか、いろいろな頼みを引き受けてくれた。
そのママさんとさらに深い付き合いになったのは、水俣病運動の夜の溜まり場にノアノアを解放し、さらに、捨て身で上京して戦った川本輝夫さんらの自主交渉闘争に彼女が宿舎を提供してくれた七〇年代前半からだ。その宿舎から川本さんらは丸の内の本社前の座り込みテントに通い、二年余の永い闘争を持続することができた。また、この家で患者の炊事、洗濯など生活を支えたのは告発する会の女子学生たちであった。その生活費稼ぎに夜はノアノアでアルバイトさせた。また、敬愛する石牟礼さんのために、自宅にその部屋まで常時用意するなどその肩入れぶりは尋常ではない。石牟礼さんは感謝して泊まった。
だからといってお馴染み客は離れなかったし、お互いに気兼ねもしなかった。しばしば水俣病の支援者や水俣映画スタッフの結婚式もこの店でやらせて貰った。水俣に移住する活動家の壮行会、患者らの慰労会などに自由に使わせてもらい、ママは慕われていた。
当時の患者にとっては東京は外国ほど遠い存在、憧れの都だった。口にはしないが、新宿に水俣病びいきのママがいるということは知られていた。運動紙『告発』にもママは寄稿し、またママ提供の「宿舎ルポ」も載った。あと、水俣は口コミの世界である。
その中でも印象に残るのは、七三年七月、チッソ前のテントを二年有余ぶりに解いた祝賀会は患者達を総揚げした。みなは歓んでクイクイ酒をのんだ。若く綺麗な坂本タカエさん(写真)は初めてみるカラオケで歌いたくてうずうずし始めた。水俣ではロレツの回らないのを恥じて決して歌はない人だった。だが歌った。数年後、水俣で会うとまず「ママは?」と聞いたのに少々と惑った。多分、彼女の東京体験はこの一回だ。それが歌を歌えたノアノアの記憶として刻まれ、そしてこのひと言に縮められているように思った。