検証・戦時下と敗戦後の日本映画『上海』その普遍的な映画方法-戦争とドキュメンタリー 『映画芸術』 No.399 2002年冬号
実は数日前に、中国の観光旅行から帰ってきたところです。私は中国には縁がありました。1953年ころから三年ほど日本中国友好協会の本部事務局員として主に中国映画の上映運動などで国交回復以前の中国と関わっていました。以来半世紀近い時間がありましたが中国に足を運んでいません。今度この企画のことも念頭にあって、自分の目で上海を観ておきたいということもあって、普通の観光ツアーでいってきました。その都市のかたちがどういうものだったかを掴んで、前置きにお話したほうが皆さんのこの映画についての読みが深くなると思ったからです。
現在の上海は市場解放経済の中心地として、現代中国の偉容を象徴する巨大なテレビ塔をはじめ、新宿副都心のようなビルが立ち並び、二十一世紀の中国はここから始まるのかと圧倒されたものです。黄浦江を跨ぐ高速道路の大橋とともに、この映画『上海』にも度々紹介される共同租界と中国人街を結ぶガーデンブリッジも無傷、黄浦江の河畔、通称バンドにそびえる共同租界当時の香港上海銀行や英国税関など、旧帝国主義諸列強時代の景観もそのまま観光名所になっていました。上海事変といっても、この一帯はいわば国際的権益によって護られた中立地帯だったのです。上海の場合、国民政府軍との戦争はその軍事拠点と中国の行政、商業の集まる中国人街に厳しく限定されていたようです。
上海という舞台は中国を植民地化するために欧米、日本が競いあってその中枢部分を分割支配した国際都市でした。一世紀をかけて完成されたインターナショナルな、「中国にして中国にあらず」といった都市でした。最初の鉄道も上海を起点としていたし、かつ揚子江を利用しての航路はさかのぼって南京、武漢、重慶に及んでいた。海軍国でもある英国、フランスはその海軍力をバックにして奥地にまで経済的支配の網の目をのばしていた。その海運業の要衝の地が上海であり、その租界には各国領事館がおかれ衛兵が守っていて、権益を軍事的に確保していたのです。
日本は上海事変の半世紀前から領事館を置き、日本人租界を作り、裁判権をもって統治し、やがて映画に出てきますように海軍陸戦部隊本部を設置して軍事的支配を固める。ここへはビザもなしに日本人は往来できたそうです。
ツアーの中国人案内者は「上海は中国の革命の発祥の土地です」とコメントしていましたが、たしかにこの国際社会の共同租界を利して革命運動は胎動したようです。五四運動で大ストライキも上海でおき、初のメーデーもここで敢行され。年表によれば陳独秀、戴李陶らによる社会主義青年団もここで発足し、1921年にはフランス租界の中で中国共産党の創立大会が行われています。
租界は同時に排日運動の「隠れ家」でもあったようです。映画は上海事変前夜には日本人居留民はひとりでは中国人街には入れないといった険悪な反日運動が繰り広げられていたといっています。これに加え、欧米の列強の反日的視線にさらされたなかでの戦争とあって、日本軍の一挙手一投足が現地上海の各国機関によって監視されていた。つまり旧満州などでほしいままに振る舞った軍事行動とは違って、皇軍らしい挙動や、捕虜や現地住民への人道的手当て…これを当時「宣撫班活動」といっていたようですが…これを配慮しなければ、国際的に袋叩きにあいかねない情勢のなかの戦闘と占領でした。この映画の随所に「共同租界地域、立入禁止」の日本軍の看板が登場し、いかに国際的ルールを守っているかが描かれています。それと同時に、中国兵が壁ひとつへだてた英国租界から食料(パンなど)を手にいれ、そのぎりぎりの境界線での銃撃戦を繰り返したかを描き、国際都市「上海」を舞台とした戦闘の特殊性を際立たせています。この映画は通常『上海』といわれていますが、最前線をフォローしたニュース映画と違い、戦闘シーンのまったくない占領直後の記録に、あえて「支那事変後方記録」とタイトルしていることからも、亀井文夫と三木茂が戦火の消えた戦跡から上海戦を蘇らせた意図を読み取っていただきたい。
そして上海以後、前線は首都南京にむけられ、ひたすら蒋介石軍を追っていく。当初、杉山元(初め)陸軍大臣の天皇への上奏によれば、その軍事行動の目算は二か月だったといいます。日本軍は「支那軍」をみくびっていたのです。その抗日の精神性の強さは日本にとって誤算でした。そしてそもそもこの上海が中国の革命運動、反帝運動の聖地であったことを想起します。この都市の歴史をあらためて頭にいれ、この映画を観ていただければと思います。
(『上海-支那事変後方記録』)上映
作品解析に入る前に、少しこの作品に違和感を持ったケースを紹介して、この作品の今現在の位置づけをしてみたいと思います。
私はつい最近、山形ドキュメンタリー映画祭で世界の最高のドキュメンタリー作家といわれるヨリス・イベンスの特集上映の機会があり、その処女作から最晩年の作品までを観ることができました。世界の戦争と革命には絶えず関心を寄せ、『上海』とほぼ同じ頃、『スペインの大地』 (37)や日中戦争を中国の側から描いた『四億』(38)を撮っています。
そのヨリス・イベンスが一九七〇年代はじめに来日した際、この『上海』と『戦ふ兵隊』をご覧になった。その上映の際は通訳が耳元で翻訳したそうですが、その時隣席にいてお世話していた記録映画監督時枝俊江さんの話しによれば、ヨリス・イベンスは『上海』の途中から不機嫌になった。それは『戦ふ兵隊』を見ても治らなかったという。なぜこれが日本では「反戦映画」として評価されているのか疑問に思ったらしい。ついで時枝さんが撮った『夜明けの国』(67)という文化大革命直前の中国東北(旧満州)のひとびとを描いた映画を見せたら、これはよく理解してくれた。たが、やはり『上海』は今ひとつわからなかったようでしたということでした。その時の通訳は言葉を追うのに躍起になり、それを聞くヨリス・イベンスが果たして画をじっくり見ることができたろうかという素朴な疑問を持ちました。たしかに戦争中の厳しい検閲を意識したうえで工夫でしょうが、戦争批判や反戦的な字句は一切使っていません。むしろ言葉尻に気を使う検閲をはぐらかした作り方をしたこの映画の成り立ちを見なければ、ヨリス・イベンスの戸惑いは当然だろうと思います。
またもうひとつ。いまは亡き記録映画監督の野田真吉さんの体験ですが、現代の若いひとにはこれが「反戦映画」とか「厭戦映画」といってもピンとこなかったという事例です。野田さんはその著『日本ドキュメンタリー全史』(現代教養文庫)でこの二作の作品を高く評価をしているんですが、やはり七〇年代初頭、つまり全共闘運動の余韻の残るころ、進歩的な観客とみられる杉並シネクラブというドキュメンタリー研究会では異論に遭いました。それは野田さんの予想しなかったものでした。かれらは「この映画から戦争を否定の意図は読み取れない」というのです。野田真吉さんは画と音声の葛藤によって、厭戦そのものを訴えた映画だと言って持論を述べたが、どうも噛み合わなかったようだ。やはり軍国主義時代を体験した人と体験していない世代との差だろうかと自問しておられました。この研究会の観客は戦後世代で学生運動の参加者が多かったようです。当時の全共闘運動には武装闘争も登場したし、肉体的抵抗を含めた戦いがあった。その記憶が鮮明だったし、ベトナム戦争はもっとなまなましかった時代、そして戦争反対を公然と叫べた時代の子でもありました。
だが私はそのいずれの場合にも、ドキュメンタリー映画の観賞にあたって必ずぶつかる基本的な命題が出されているように思います。
私見ですが映画を作る人間はそう将来の観客を予想して作るものではありません。せいぜい二・三年にその役割(メッセージ性)を果たせばいい程度の考え方でした。もっぱら現在の要請に応えようとします。無意識に、同時代の共通の認識を前提としているものです。まして戦争や社会的事件のドキュメンタリーの場合、その時代の核心を撃つことに心を砕くものであって、遥か将来の、今度のように半世紀後の観賞にも耐えるように配慮するということはまずないと思います。
映画も百年の歴史を経ました。文学、演劇、絵画などに比べ、これだけ変貌と発展を見せた芸術はありません。表現も発明を重ねています。そこでその時代々々の制約を持っている作品を今日の時点でどう味わい尽くすかはいつも課題になっています。
最近、とくに歴史的作品の上映にあったって、解説者、というよりその作家・作品の研究者によって、その映画の歴史的社会的背景とその作品との関係を語る解説の必要性が着目されてきました。いわば“映画学”の参加した映画観賞の在り方、それがいまでは世界的に映画祭などででの古典映画の回顧展の主流になっています。たとえばこの前に述べた二つの例のように、過去の定説に従って、「反戦映画」の枠で亀井作品を見る場合、咀嚼しきれないものがあります。亀井さん自身が自作を「反戦」「厭戦」映画として見られることを嫌い、戦争についての自分の感性的批評として受け取ってほしいといわれるのはよく分かります。あるがままの感受性で受け取って…というのが亀井さんの願望だとしたら、それも氏一流の“作品解説”でしょう。その上で作品が時代を超えた映画の訴求力、つまり普遍的な感性に訴えるものであればよいというのが亀井文夫の本音だったのではないでしょうか。
話をもとに戻します。ドキュメンタリーの場合、字幕やナレーションに頼ることが多い。その言葉の重要性が非常に大きいといえます。だが『上海』でいわゆるやらせといわれるシーンがあります。捕虜収容所で日本軍人の所長が居並ぶ捕虜に声をかける。「もう頭はすっかり良いか?」。こたえは「好(ハオ)」だけですが通訳は「大分良いようですと申しております」という。「夜分などは寒くないかな?」「ハオ」「寒くないと申しております」。「食事も十分足りているかな?」「ハオ」「十分だと申しています」といった通訳です。「ハオ」の答えだけだが、通訳の訳は適当な返事に訳されます。同時録音撮影を意識したのでしょうか、よそ行きの所長の挙動には失笑を誘います。しかしこれが外国人に翻訳された場合にはどういう効果を持つでしょうか。硬直した捕虜の表情を見ないで、言葉に流されれば家族的な温情主義のシーンとも言えなくもありません。その直後の捕虜の給食シーンでは、ひとり箸をつけない捕虜が「カメラの前で食ってたまるか」といったギラリとした目付きで抵抗します。それは亀井さんの意図的な編集の一例です。
『戦ふ兵隊』の字幕にしても「大君の辺にこそ死なめ…という言葉を思うとき、兵隊の感情は美しく昂揚する」といった建て前の言葉と疲れ果てた兵士の実像のぶつかりが、観る人に輻輳した感情を呼ぶのですが、こうした画と音声あるいは言葉とのズレが感得されなければ『上海』にしても『戦ふ兵隊』にしてもストレートには「反戦映画」とは見られないでしょう。
コメントをどう正確に伝えるか。これは世界のドキュメンタリー映画人が悩んでいる問題です。とくに外国むけの場合にはそうです。どういう訳語が相応しいか、吹き替えでするのか、字幕スーパーで出すのか。どうしたら画と音を同時につかまえさせることができるかというのは今でも難しい問題です。そういった意味で亀井さんの『上海』の場合、ナレーションは大変に抑制されているが、やはり言葉として翻訳してみれば、「日本の占領が上海の曙をつくる」といったトーンになる。言葉として聞く限り、当時の国策と同じになりかねないのです。『上海』のばあい話術の大家で戦記もので評判を取った松井翠軒に最少のナレーションで語らせていますが、なお饒舌と思ったのか亀井さんは『戦ふ兵隊』では字幕に代えてみたと聞いたことがあります。それでも『戦ふ兵隊』はついに公開禁止になりました。それすら見破られたと言えるでしょう。
私は最近、アメリカのエリック・バウナーの『世界ドキュメンタリー史』を再読しているのですが、戦争の記録映画としていまも残る作品が意外に少ないのに気がつきます。そのなかでの亀井文夫の位置付けをみないわけにはいきません。その対比といっては少し無理があるかと思いますが、ヨリス・イベンスの『スペインの大地』(37)はやはり歴史に残る戦争作品だと思います。スペイン内戦は第二次世界大戦の前哨戦だったといわれていますが、1936年、スペインで総選挙で勝利した人民戦線に対してフランコ将軍が反政府軍を組織して内乱をもって人民戦線政府を打倒しようとする。これをナチ・ドイツ、ファッショ・イタリアが軍事支援する。一方、人民戦線側は軍と市民の武装部隊で戦い、これには国際的な義勇兵も参加して、ファシズムと民主人民戦線の総力戦の様相を呈してきます。その戦いをオランダ人ヨリス・イベンスは人民戦線側に立ってその戦争を真っ向から描いています。
これは世界的関心を呼びました。亀井文夫が『上海』に起用される契機となった『怒濤を蹴って』(37)という映画があります。これは「足柄」という新造の軍艦がイギリス女王の戴冠式で欧州を歴訪した記録した映画です。その構成編集に当たったかれはスペイン近海の航行シーンに「人民戦線は東漸する」というスーパーをいれ、日本はどうなるかと問い掛ける映画にしました。日本にとってもそれほどの大事件だったようです。
ヨリス・イベンスの『スペインの大地』は“さまよえるオランダ人”といわれるかれを中心に、音楽はフランスの音楽家、仕上げは名編集者のヘレン・ファン・ドンゲン、アメリカの作家ヘミングウェイの解説を俳優フレデリック・マーチがナレーションするというまさに欧米の反ファッショ文化人の国際連帯を絵に描いたような作品です。
映画は冒頭、アペイン農村、そのからからに干上がった大地が出てくる。それから寄っていくと人びとが水路を作っている。水路が出来、灌漑が出来ればスペインは豊かな大地になる。地主から奪って手に入れた大地に水路を作ることが戦いだとういう話をちりばめながら、ほんとうに生きるためには、われわれの選んだ代表を守り、われわれの政府軍を支援しなければならない。そういう状況描写を導入部において、首都マドリッドの奪回戦に接近していく。マドリッドにおける戦いはそれこそ上海とおなじような陣地戦、白兵戦です。フランコ軍が最新の機関銃座を構築している、空はドイツから手にいれた戦闘爆撃機で制圧している。その爆撃で30何人の市民ら非戦闘員が殺され、その悲劇をピカソが「ゲルニカ」に描きました。無差別爆撃はかつて戦争には許されない行為だったのでしょう。『上海』は実戦を撮っていませんが、ここでは市民軍に連れ添って、最前線にカメラを据え、四人突撃すれば二人は死ぬといった突撃をそのものを撮っています。塹壕から塹壕へ、建物の一角の拠点から拠点へと移動する市街戦をもっぱら市民兵士の目で撮る。そして後章に再び農村に戻り、完成した水路に水が入り、戦う農民、そして志願した医者や学生が次なる戦闘に備えて訓練しているラストで終ります。
この映画の白眉は市民軍の参加しているような一体感です。文字通りカメラをもって戦列を同じくしている。その意味で同志的連帯のなかで初めて得られた至近距離のカメラポジションで撮られたものといえるでしょう。この映画ができた翌々年、内乱は人民軍の敗北によって終わるのですが、この映画が国際的なアンチファッショ戦線の形成をどんなに鼓舞したかしれません。印象的なのはそういった正義の戦いが持つ明るさが自然に映画に写っていることです。攻撃しているビルに銃撃、砲撃を加えているのですが、一向に降参しない。ムーア人の傭兵だと解説していますが「敵ながらあっぱれ」といったニュアンスのナレーションが添えられています。戦争というものは倒し倒されるもの、武器の戦いというより自分の肉体でぶつかっていくという、だから敵にたいしても騎士道のようなものすら感じているようです。現代戦のような大量殺人兵器の登場以前、国家と国家の正規軍の戦い以前の市民戦争の姿の記録映画として貴重な作品です。なによりカメラが完全な自由を保障されていたことです。勿論、国家や軍による検閲も、取材制限もない。映画はそのまま世界の観客に提出され、支持されていった。ここには国家権力の管理も統制もまったくなかった。こんなケースが世界的にみても、その前にもその後にも有り得たでしょうか。この映画『スペインの大地』は当時の世界の反ファッショ文化戦線の結晶のように思えるのです。
しかし待てよと思いました。では亀井文夫のような映画とその方法は世界にあるかどうか、です。話は飛躍しますが、かりに日本の映画人…たとえば足腰の軽いプロキノの残党なんかが、日本軍側からでなく、中国側に身を投じて、中国人民の側からの抗日戦争を描けたらどうだったろうと空想しながら、またヨリス・イベンスの中国側から日中戦争を描いたとされる『四億』(39)を見ました。かれが『スペインの大地』の勢いを駆って挑んだ映画だったに違いありません。しかしこれは彼の持つヒューマニズムの訴えの少ない作品でした。日本軍と戦う中国軍の前線シーンがほとんど撮れていないといったことではなく、抗日に向けての中国民衆の生活と感情が伝わってこないのです。つまり中国はなぜ戦うかといったことがはっきりしない映画でした。ナレーションや蒋介石の将官の言葉が語られていますが、兵士と人民不在の映画でした。とくにカメラ・ポジションの自由がない。戦列の兵士群の描写はあっても、よりアップが撮れていないのが不思議でした。
あとでヨリス・イベンスの自伝『カメラと私』を読んで、その理由が分かりました。かれの中国での人脈は孫逸仙夫人と蒋介石夫人でした。かれの映画歴も『スペインの大地』の評判も知っている知識人でしたが、彼女たちが紹介した国民政府の報道長官や世話役は検閲と撮影許可の権限を持つ責任者、つまり外国取材者にたいする報道管制者だったのです。当初、首都漢口での取材許可の交渉に四週間もかかり、その官僚ぶりに悩まされます。そして撮影には警戒心の強い情報部員がつきっきり、後半にはイベンスたちがカメラを回す脇で、彼等が16ミリを回し、フィルムを香港で現像し、それを検閲してからOKをだすという始末だったといいます。またイベンスは蒋介石軍がどれだけ日本と戦う熱意があるのか、抗日統一戦線、国共合作の実情を取材したいと考え、紅軍地区の取材も希望したですが、それがマークされたのか国民政府側のヨリス・イベンスへの警戒心はさらに強くなったようです。つまり『スペインの大地』で掴んだ自由な映画作りはついに再現し得なかった、それが映画『四億』に反映しないではいなかった、というのが私の結論でした。
さっき日本のプロキノのカメラマンでも上海に飛んで、中国側の戦いを記録したら…などという駄辯を哢しましたが、ついでにいえば当時の上海は中国最大の映画企業の集まるところでしたし、また川喜多長政、かしこ夫妻の中華電影もあり、中国映画人には事欠かなかったはずです。中国人監督もカメラマンも録音技師もいたでしょう。それにも関わらず日本軍攻撃下の上海の記録映画は中国に残っていません。戦いの渦中の映画の記録はよほどでなければ残されないものなのでしょう。戦争記録映画は国家的事業に組み込まれたのです。第二次大戦の例を見れば、ナチ・ドイツはのべ三百人のカメラマンを動員し従軍取材させて、臨場感ある戦闘シーンを『週刊ニュース』の形で劇場上映しました。極めて扇情的な映画で、ドイツの宣伝戦の武器だったようです。軍の協力も度はずれたものでした。たとえばポーランドの都市グディニア侵攻の際には、カメラマンが突撃部隊に先んじて配置され、全面衝突の場面を記録できるように攻撃が延期されこともあったとエリック・バウナーは書いています。そうでもしなければ衝突の瞬間などは記録できないでしょう。
日本でも国策ニュース映画は軍のもちろん奨励するところ、前線風景も不可欠でした。しかし軍事機密が最優先され、抗日ゲリラやスパイを恐れ、また上海に集まる国際的な視線を恐れて極端な報道規制を敷きました。とくに新聞写真やニュースへの検閲は過剰なまでに厳しいものでした。最近毎日新聞から永く秘蔵していた当時、検閲ではねられた写真を選んで『不許可写真』と題して出版されましたが、その不許可の理由は「部隊名の分かるものはいけない」「駐屯地の分かるものはいけない」「最新兵器はいけない」「敵前上陸の現場の軍馬の揚陸はいけない」「敵兵であっても死体はいけない」「将官のスナップはいけない」など神経質極まるものです。いわばニュース的発見のショットはすべてNGです。そんなニュース映画でさえ、自分の夫や息子の姿はちらっとでも写っていないかと思ったのか、ニュース映画館は盛況を極めためたようです。それは日本の映画興行師には刺激的な事件だったに違いありません。亀井文夫の起用もその機運に乗ったものであったことはあきらかです。
軍は戦争の意義を徹底させることに腐心したはずです。ところが『怒濤を蹴って』『上海』『戦ふ兵隊』の連作には「日本はなぜ戦うか」といった戦争目的の解説はありません。「戦争はなぜ始まったか」の理由づけもない。しかしその時期の軍当局のいわばPR映画はいくつもできていました。その一本に鈴木重吉…有名なプロレタリア的傾向映画『何が彼女をそうさせたか』の監督ですが…彼のつくった「なぜ日本は戦うか」といったテーマの映画を見たことがあります。ドップシーンで陸軍大臣で皇統派だった荒木貞夫が延々と神国日本の伝統を喋ります。それから世界地図が出てくる。そのアジアの各地にイギリス、オランダ、フランスなどから植民地支配の黒い手が延び、アジアを席巻し、日本を脅かすといった線画がでてくる、そこで「日本の生命線は満州であり蒙古だ。そして中国…」といった当時の支那を懲らしめるといった方針が語られる。こうした類いの映画について亀井さんは一言も言及していません。しかし彼はその軍国路線の映画を睨んで彼の映画の方法論を準備していたと思います。彼の軍の企画映画の第一作である『怒濤を蹴って』では「スペイン革命は東漸する」というスーパーを入れるという試みたりしましたが、最後の白波を蹴って進む足柄にシーンに「東洋の平和は日本海軍が守るのだ」というタイトルを入れろという海軍省の主張には服しました。。都築政昭の著書『鳥になった人間ー反骨の映画監督 亀井文夫の生涯』によれば、亀井さんは『怒濤を蹴って』のクレジットから「構成編集 亀井文夫」のタイトルを削るよう進言したそうです。
晩年、亀井文夫は戦時中の仕事を回顧してつぎのような主旨の言っています。「私は映画に入って、東京電灯のPR映画からスタートした。『上海』『戦ふ兵隊』も戦後つくった映画も何らかのPR映画だった。『上海』は陸軍省のPRだったかも知れない。それからある種の映画は闘う民衆のPR、原水爆反対運動のPRだったかも知れない。私は委託されたテーマで、それをどう活かすかということをやってきた気がする」。そして『上海』『戦ふ兵隊』については「何を撮ってはいけないか、何を訴えたがっているかは分かっている。その制約といかに闘うかが面白い。私は愚かな戦争を俳諧のように見てみたい。核心をストレートにだして観客の感性にじかに投げ掛けたいのだ。頭からあえて反戦を意図して作ったのではない。むしろ撮れたものだ。それは三木茂の目であり、私の目であった。戦場に行った途端に分かった戦争のむごたらしさは、無駄で空虚で民衆を不幸にするものだった。中国人を蔑視するというようには私は天性なり得なかった。戦いに疲れた中国民衆も日本軍兵士も変わりない。またこの目でみた戦争とは人間だけが苦しむのではない。犬の馬も樹木も草も苦しむ。そういうことを感じて私は映画を作ってきたつもりだ」。では制約をどうとらえているだろうか。「厳しい軍の壁は知っている。ロケ現場でも仕上げでもそのことは先刻承知している。そのうえで自分の自由を獲得するためにどんな相手とも話し込んで、巻き込んで、自分の思い通りにいくようにした。それは苦労でもなんでもなかった。仕上げの時もどう繋いだら効果があるか、見る人の感性を信頼して心理を読みながらフィルム繋いでいった。検閲や制限があればあるほど、それを超える思い付きや工夫をする…それがやりがいのある仕事だった」。それはかれにとってスポーティな戦いであり、そういう風にしか自分はできないと思い定めている人間の創作の根っこだったのでしょう。
ここで『上海』における三木茂について触れておきます。
『上海ー支那事変後方記録』のクレジットタイトルを思いだしてください。撮影・三木茂がトップです。つづいて録音の藤井慎一、解説・松井翆軒、そして編輯の亀井文夫となっています。『上海』では三木さんは別格の扱いです。この作品での三木さんの存在がいかに大きいかはクレジットを見れば分かります。
ご承知のように三木茂は劇映画のカメラマンとして、石田民三の『おせん』、そして溝口健二の『滝の白糸』などで声価を決定づけられていた人です。彼のドキュメンタリーへの転身は同時代のカメラマンや撮影志望の青年にいわば啓示的な衝撃を与えたと言われています。のちにかれは記録映画の監督として『土に生きる』(41)にはじまり『柳田国男と遠野物語』(76)を作りました。この『上海』でもすでに演出できるカメラマンとの自負はあったのです。劇映画で鍛えた三木さんの撮影設計は逆光のなかのクリークやヘドロの上陸地点の泥の質感、激戦の跡を止める暗い廃屋内の描写などに存分に生かされています。劇のスタジオ撮影にはつきものの移動撮影などはそれまでのニュース映画には出てきたことがなかったでしょう。川沿いの陣地戦の跡、並木道に果てしなく続く塹壕など、そして復旧した水道に水を求める市民の行列を辿るカメラ。そして有名な軍事パレードの移動です。歓呼の日の丸をふる日本人居留民の列にカットバックして押し黙った中国人の顔がとらえられています。それは執拗に三カットも重ねられ、抗日の拠点上海の敵意が見るものに尽き刺さってくるといったショットが生きています。これは静止画像では撮り得ないものです。とくに抗日の牙城である上海街頭では危険ですから。
「風景の広さを出すには移動撮影とパンが必要だった。そのために借りた車にカメラを据えるのに短い三脚がなくて苦労した」と三木さんは言っていますが、当時の実景のカメラワークとしては発明に近い工夫が要ったたようです。驚くのは飛び交う蝶や野良犬などの何気ないスナップがふんだんにとらえられていることです。亀井さんはこうした三木さんの感覚的な映像を随所に生かして、「喪家の犬」といった流浪の悲しみを基底音として描くことができたと思います。
亀井さんの『上海』にはのシナリオはなかった。三木茂に現場は任せたようです。「じゃあどういうのを撮るのかとなってきたら、ジャーナリズムにしょっちゅう取り上げられている問題、爆弾三勇士の塔とか、毎日のように新聞のエピソードに出てくるようないわば戦場のスター的名蹟をみんな撮ってくればいいんだ。いわゆるシナリオじゃなく箇条書きに羅列的に書いた。日本人の持っているセンチメンタルな感性的な面もいれて、赤い夕陽にというようなね。そういうものだったら、いくらでも発表できるしね。そうしたら三木茂さんが一生懸命そういうものを撮ってきたわけです」と語っています。
編集にあたって、亀井さんはまず上海のおかれた特異な状況から入っています。一見国際都市の賑わいがある。しかし一歩治安の回復した中国人街に入れば、いまだに抗日ポスターや壁に書かれた徹底抗戦の文字が撤去できていない。かつて革命運動、救国抗日運動の聖地だった上海の素肌が残っている事を示します。同時に新聞種のエピソードも拾っていきます。日本将官の勝ったものの余裕綽々のインタビューのあとに一転して中国兵士の街路や建物に陣地を築いた様子を克明に追うカメラがあります。その徹底抗戦の弾痕を辿って、壁から壁へ、銃座となった窓から窓、暗い部屋から部屋へと歩くカメラ、共同租界の境界に隣接する敵陣地。町や舗装道路に築かれたバリケードと攻める側の心胆を寒からしめるような画を持ってくる。あるいは叙情的な音楽を流して、墓標が並んでいるシーンを嫌というほど見せる。ヘドロや泥のクリーク、兵士が足を取られたらどうなるかという質感を叩き込んだ上で、その敵前上陸の日本兵を迎え撃つ中国兵の無数の銃撃用の蛸壺や塹壕、お墓をくりぬいた偽装トーチカのシーンを繋いでいます。日の丸を掲げる日常風景に続いて激戦として、新聞にも載った「愛国女塾」のシーンを持ってくる。多分進歩的女子大だったのでしょう。その鉄筋校舎に籠って日本軍を迎え撃つ中国兵の狙撃拠点を見せる。その瓦礫に混じって落ちている青天白日旗や抗日パンフのアップなど。こうした廃墟、弾痕などの克明な描写から、弱兵と軽んじていた蒋介石の軍隊が予想を超える頑強さで上海を死守しようとしたことを語っています。見ながら、もし宣撫のシーンを除いて、上記の画面に中国の側の視点で「中国はかく戦かえり」というナレーションを入れたら、そのまま中国の戦いの記録になると思ったほどです。
こうした質の映画は私の知っている限り一本しかない。イギリスのハンフリー・ジェニングスという作家のロンドンで空爆下の消防士の消し方だけを延々と撮った『戦火は開かれた』(43)という映画です。ロンドンの戦時生活を見つめた映画ですが、見ているうちに生活のなかの戦争が嫌という程分かる、こうした記録映画がのちのちにも訴える力をもっているとエリック・バウナーはその著に書いています。その彼も『上海』を味わいの深い映画として特記しています。この二作がともに戦争とは限りない徒労と無駄なことだということを物と風景で即物的に描き、批評している点で共通しているように思います。
しかしこの『上海ー支那事変後方記録』には軍の宣撫活動が不可欠の題材でもあったようです。ラストに有名な外人宣教師の迎合的なインタビュー、日本の唱歌をこどもに合唱させているシーンにはやはり抵抗感があります。せめて中国の唱歌だったらと思いますが。つぎに唐突ともいえるエンディング・カットで感傷を断ち切られます。それは街角の歩哨兵の足下に繋がれた犬です。それまでも嫌がる子犬をひっぱって歩く日本兵やあてどない野良犬を随所にちりばめていた伏線効果がこの繋がれた犬で一挙に生きてきます。「軍靴のもとにくびられた中国の民衆」といった暗喩がズシリときます。
かつて亀井さんは自作『上海』を語りながら、あてがいの飯を拒否する捕虜の目をストップモーションで止めたかったし、自分の意図の分かるように自由自在に画面をトリミングできたらもっと良かったとのべていましたが、さしずめこのラストの歩哨兵の足下に繋がれた犬のサイズを「軍靴と犬」の大写しにしたかったのかと思ったものです。
いろいろな見方もできる映画ですが亀井文夫が編集者として三木茂の感性的な映像から、亀井さんの独自の「上海での戦争観」を表現した、その意味でふたりの映画芸術家の遭遇は記録映画史に残るドラマであった、そしてこの亀井文夫の思想と映画方法論は今後も世界の研究者に辿られていくものと思っています。ご静聴ありがとうございました。