ひと欄「水俣病患者の遺影はどこまで撮影できましたか」 『朝日新聞』 9月13日付 朝日新聞社
水俣病で亡くなった千百人を超える患者の遺影を求め、昨年十一月から不知火(しらぬい)海の沿岸をひたすら歩いている。水俣病の公式発見から四十年となる来年秋、映画や講演会などで水俣の悲劇を問い直す「水俣・東京展」の会場に、死者の顔写真をずらり並べようと決意した。
「水俣病の主役を、会場を訪れる人の記憶に深くとどめたい。顔、顔、顔が並ぶその衝撃は、僕も想像できない」
三年前、亡くなった患者を追悼する水俣市主催の慰霊祭が二十数年ぶりに復活した。しかし、死者の名前も遺影も伏せられていた。「愕(がく)然とした。本来遺影を掲げて鎮魂すべき死者の存在をも隠してしまう社会的な構造ができあがってしまっていた」
修学旅行で水俣の生徒が他校からいじめられる、結婚できない。「補償金目当てのニセ患者では」と周囲から白い目で見られ、患者であることを隠した人も少なくない。「僕が映画で撮影したのも、裁判闘争で公の場に出てきた遺族や患者ばかりだった」
故人の名前を記録した原簿はチッソ水俣本部にしかなかった。過去の新聞記事を片っ端から調べ、患者や知人の協力で、八百五十人ほどの名前が分かってきた。「水俣を顧みる力をお与え下さい」。遺族に向かって、何度もこの言葉を口にした。
「お父ちゃん、行けなかった東京じゃもん。写真でな行ってこんな」と撮影を快く受け入れてくれた遺族もいた。
だが、激しく抵抗され、一枚も写真を撮れないことが三日間続いたこともあった。収集できた顔写真は四百人分ほど。撮影を固辞されたときは、周辺の風景をもって代えている。無念さは残るが、「やるだけのことはやった」。
東京に戻ったら、今度は乱獲・密漁・核廃棄が横行する「オホーツク海」の取材に取り掛かる。