5百枚の遺影 『アサヒグラフ』 10月11日号 朝日新聞社 <1996年(平8)>
5百枚の遺影 『アサヒグラフ』 10月11日号 朝日新聞社 <1996年(平8)>

 5百枚の遺影 『アサヒグラフ』 10月11日号 朝日新聞社

 水俣病で亡くなった方は何人だろうか。
 水俣・東京展をどのように進めてゆくか、考えていたとき、ふと思った。恥ずかしい話だが、私はとっさに数が出てこなかった。かって亡くなった方々を映画(『医学としての水俣病(病理・病像編)』)に取り上げたこともあったが、いまは「五百人前後ではないか」としか言えない、非常に情けない状態だった。
 熊本県に問い合わせてみると、千八十人(当時)という。これは、私が想像したよりはるかに多い数だった。当然、その一人一人に顔があり、それぞれの人生があったわけだ。私は、自分が忘れていた死者、その千八十人を具体的にイメージして、記録に刻みつけたいという思いに駆られた。そして千八十人の遺影を撮影して、東京展に掲げようと思い立った。
 もし、映画に撮られたり、文学に描かれる前の、「原色の水俣病」というものがあれば、それは亡くなった人たちの遺影ではないだろうか。その人たちの一人一人の苦しみをきちんと拾いあげられなかったところに、水俣病の解決の曖昧さと遅れが象徴されていると思う。
 最初、私は三カ月ほど水俣に滞在すれば、大体の遺族の所在はつかめるだろうと楽観していた。ところが二カ月もすると、何から手をつけ、どう進めればいいのか、まったくわからなくなった。
 水俣病で亡くなった方々の名簿がどこかにまとめて保管されていて、閲覧可能だと思っていたのだが、県庁にはない。市役所にはあるが、その市の死者に限ったもので、遺族の許可なしには閲覧できない。チッソの水俣本社にはあるが、これも遺族団体しか見られない。患者さんの支援組織も生きている人たちの支援で手いっぱいで、死者の名簿作りまでは手が回らないと言われた。
 二百五十人の遺族の所在がわかったところで、先がまったく読めなくなって、私は全部放りなげて帰りたくなった。そんなとき、最後に思いついたのが、新聞の死亡記事に頼る方法だった。熊本日日新開水俣支局からスクラップを借り、ベタ記事を頼りに探した結果、なんとか九百人近い名前を割り出すことができた。さらに、患者さんに情報を聞いて回り、遺族の氏名と住所が確定すると、全員に手紙を出した。そして戸別訪問へと移った。
 しかし、ここでまた、私は大きな読み違えをしていることに気づいた。生身の患者さんの撮影は難しいが、遺影ならば家族も快く許可してくれるだろうと私は思っていた。
 しかしながら、遺族には遺族の思いがある。亡くなった方は長い年月のうちに水俣病患者という肩書を抜きにして”うちのおじいさん””うちのおにいちやん”という形で記憶されている。家族は、水俣病について語らないでおこうという時間を積み重ねていた。
 原爆の被害者もそうであるが、日本では、社会的な事件によって不当な犠牲を強いられた人びとは、いつも社会的弱者に追い込まれてきた。被害者即弱者という構図である。水俣でも被害者は、いまさらそんな不平を言うな、治らない病気をごねるなと中傷され、あらゆる形の差別を受け、それにうちひしがれてきた。現在も、露骨ではないものの、差別や偏見が社会の底に深く根づいていることに変わりがない。
 とくにこの病気は、本人の苦しみ、症状が外に現れにくいため、水俣病と訴えればすぐにニセ患者と言われ、補償と絡めば、必ずやっかみの対象にされてきた。
 そんな精神風土のなか、遺影を提供してくれという私のむこうみずな申し出に対して、遺族が殻を閉じたのは無理もない。遺影を出すことは、結局、遺族の生きざまをさらすことにつながってゆく。身辺に再び波風が立つのを恐れ「ほっっておいてくれ」と拒絶する人びとに向かって「有機水銀で殺された人々は記憶されるべきだ」などと言うのは、非常に押しつけがましい私の願望に思えた。
 一日五、六軒を訪ねて歩いたが、三日間に一枚も撮れないこともあった。はっきり口に出して断られたのは二百人。居場所がいくら捜してもわからなかった遺族が二百人。一年かかって自分の手で撮影したのは、結局、四百八十六枚だった。
 私は、一九六五年に初めて水俣を映画に撮ったときのことを思い出した。あのときも、「撮られても体が治るわけじゃない」と患者さんの強い拒絶にあった。三十一年たっても、同じことを続けているのだから、私も懲りない男である。
 しかし、当時と比べれば水俣は、確実に風通しがよくなってきていることも事実である。今回、交渉した遺族の三人に二人が、遺影を提供すると言ってくださった意味は大きい。
 公害の原点である「水俣」を、いかに語り継いでいくか。これが「和解」後の最も重要なテーマだということには、だれしも異論がない。水俣病は日本の高度成長の犠牲になった社会的事件なのだから、本来、遺影は、水俣病資料館などに掲げられ、水俣の「再生」の礎にされるべきではないか。
 アウシュビッツ、沖縄戦、ベトナム戦争……。おのおの状況は違うものの、どの場合にも言えることは、犠牲者の追悼の仕方として、われわれが最初になすべき作業は、犠牲者の確定ということである。犠牲者の追悼には”祈り”という方法もある。しかし、私たちが祈りを捧げる対象を明確にせぬまま、祈りを先立たせれば、私たちはつらい事柄を避けていることになる。被害者の個人を確定してゆくこと、加害者の公的な責任を明らかにしていくこと、それが同時に行われてこそ、事柄の真相は明らかになりえる。
 今回、集めた遺影のネガは、本来、私が個人的に持っている性質のものではないと思う。公的な運動によって収集が続けられ、何年かかってもいいから完成させてほしい。そして、亡くなった方の遺影を水俣に安置してほしい。そう、私は痛切に願う。遺影が水俣に掲げられたとき、水俣を覆っている重い空気に、風が吹き抜けていくはずだ。
 いま、水俣は難しい時期に入った。「和解」は「敗北」と位置づけられるだろう。しかし、患者さんたちは、これ以上長引けば生きているうちに救済を受けられない、というところまで追い詰められていた。
 水俣病の運動は、過去のどんな局面においでも、患者、被害者自らが戦い、それによって支援が広がってきたことが特徴だ。私が水俣を撮り続けてきたのも、水俣の、患者さんたちの”マグマ”が私にエネルギーを与えてくれたからにほかならない。
 患者さんたちは、いまひとつの”ハードル”を飛び越えた直後だ。患者さんたちはエネルギーをつかい果たし、私にはいまの水俣に、映画の撮影へと自分を駆り立てるようなエネルギーを発見できないでいる。
 しかし、患者さんのなかには、苦しみ抜いた果てに、水俣病を真正面から受け止め、人間の愚行を自ら背負って、水俣の教訓を伝えていこうと、静かに思い定めた人たちがいる。水俣病事件は、ほかの事件に見られない、”行方”を持った事件になりつつある。新しい水俣の動きは静かに始まっている。(談)