高木仁三郎と映画『原発切抜帖』のこと 「高木仁三郎著作集月報」 10月 七つ森書館
高木仁三郎氏と最後に顔を合わせたのは97年度のライブリフッド賞を受けられた記念祝賀会の席だった。お会いした『原発切抜帖』が82年からその後15年、数回会っただけで、もっぱら活字でしか氏の仕事を見てこなかった私であるが、この「もうひとつのノーベル賞」に評価されたことは日本の市民運動の誇りと思って嬉しかった。
青山の会場は一杯の参加者、氏とはお互い照れ気味の挨拶のみ、そこで何かしゃべらされるとは考えもしなかった。が。突然指名され、「映画『原発切抜帖』で一緒に仕事した映画の…」という。「えっ!まさか、なんで!」と頭が白くなった。私は「世界にも具眼の士がいるものですねえ…」などとしどろもどろのていたらくだった。「高木さんはなぜ私に!この世の中、どうなっているんだ」と首をひねるばかり。思い当たるのは『原発切抜帖』の時の数千の記事の選びだしを氏と共にした位だからだ。しかしそれを書こう。
この映画『原発切抜帖』はだれもが膝にひろげて読んだ新聞記事を、核問題だけ選んで、その数十年分を早めくりしたらどうなるか、を試みた“実験映画”である。全編、新聞記事と記事を辿るペン先だけの画面である。私自身、スクラップにした記事ですら、あれこれをつい忘れている。相次ぐ原発事故の“慣れ”というか、麻痺というか、かなりの事件でも「人の噂は七十五日」で次のそれに飲み込まれている。記憶は力であろうが、その記憶をどう蘇らせるか。フィルムの時間に写し換えて、一気にヒロシマ・ナガサキ以来の核の記事を早めくりしたら…というのが映画『原発切抜帖』である。その指導に高木仁三郎氏と勝手に決めていた。原爆と原発をともに反地球、反人類的として否定する方だからだ。
映画の出だしも決まっていた。それは敗戦近い45年 8月 7日のタブロイド版の新聞にのった広島の第一報である。「焼夷爆弾により、若干の被害を蒙った模様」という三センチ四方のベタ記事のアップである。長崎の被爆当日の 9日には新型爆弾への心得として「白衣を着て防空壕へ。初期防火に努めよ」という通達が載った。原子爆弾とその威力が仁科博士の談話で余す所なく報じられたのは敗戦の翌16日であった。たった10日たらずの間に露呈した政府の報道操作の詐術の“証拠”だった。この記事のコピーを手にして、面識もない高木仁三郎氏に協力方を申し込んだ。初対面の氏は聡明さを絵に描いたような顔だが、そのコピーには喜色を隠さなかった。氏は“誰もが見ていた記事のみで映画を作る”ことに興味が湧いたようで、「いわば一般の新聞読者の目で問う映画ですね」と協力を約された。と同時に私が「放射線」と「放射能」のコトバ(作用)の違いすらわきまえない科学についてはド素人であるもバレた。そこで大きく身を乗り出すことになられたのであろう。
氏の荷担は映画への大きな弾みになった。
これを期に、二か月かけて若い仲間と図書館や縮刷版からの核・原子力関係記事一万二千点の総当りを終えた。
問題はその記事の選択である。せめて二、三百点に絞って構成を組まなければならない。そのピックアップに時間をかけた。多忙にも関わらず、記事に齧り付いて読む氏はときに笑いだしたり、吐息をついたり、いまいましく呟いたりしながら一点ごとに順序と仕分けをした。40年近い記事を追うことにわれを忘れる風だった。その氏の反応に演出家の私が目を凝らした。記事ごとにそのいのちといったものが直観的に伝わってくるからである。
「被爆国の日本の原発ならば安全であろう」とアジアからの期待が寄せられ、日本の原子力産業もその線で研修生を招こうとしているといったちいさな経済記事に大きく注目したり、水爆実験から30年経って白血病で死んだビキニの被爆青年の記事をマークし、かってのアメリカ当局から実験以来「因果関係なし」とされていた古い記事を否定するなど、『切抜帖』の早めくりならではの工夫が楽しめたのである。
この映画手法は今日も新鮮さを失っていないと言われている。それは多分記事の写し方に秘密がある。つまり高木氏が記事を前にして感応したポイントを正確にカメラと語り(小沢昭一)で再現したからであろう。これは姿は出さないが高木仁三郎氏の記録でもあると思う。そうでも解釈しないと、なぜ晴れの席に指名されたか全く分らない。
(03,10,2)