日本映画の再生-私の映画の場合 12月シネマ・ド・リール(フランスの映画祭)用 12月20日脱稿
私は1956年に岩波映画製作所に臨時雇い(非社員)として入社した。最初の仕事は日本最大の製鉄企業、八幡製鉄のPR映画の製作進行であった。
敗戦によって壊滅的打撃を被った企業は戦後、膨大な赤字と余剰人員をかかえ危機にあった。それを救ったのは1950年に勃発した朝鮮戦争の特需であった。アメリカの対日政策は日本企業の救済に向けて動いた。アメリカの資本援助のもとに新規の大型設備投資がおこなわれていた。それらを描くPR映画は記録映画というより企業の力の誇示に重点が置かれていた。
潤沢な製作資金、最新の映画機材、選ばれたスタッフによって映画は量産された。それには多くの映画労働者が必要とされた。そうしたPR映画の最盛期に私も使い捨ての無権利の臨時雇いとして映画の世界の一角に位置し得たのである。
1960年代、日本の高度成長はめざましかったが、その裏面に過度の都市集中による不安定な生活、公害など環境問題が潜んでいた。また日本とアメリカの間の安全保障条約はアメリカの冷戦下の軍事的支配を強め、危機意識は全般的に国民をとらえ、とくに若者の間には「再び銃をとるな」という反体制の機運が醸成されていた。
貧富の差はひどくなり、自国のなかに第三世界的な遅れた階層が残されていた。たとえば農漁村がそれであり、部落差別は存在し、在日外国人は無権利のまま放置されていて、国内の矛盾はつねにあった。それだけ社会批判を強める動向があり、それは本来記録映画の題材に相応しい意味で「日本は記録映画の宝庫である」といった見方が私たちに芽生えていた。
私たちの映画が課題を自由に描ける条件はなかった。PR映画が依然として主流だったからである。そこからの脱出を目指して、いろいろな試みがなされた。PR映画のなかで、表現的に作家の視点を強く出すこともその一つだった。例えば岩波映画製作所で有能な新人監督と目されていた黒木和雄はPR映画のポイントを生かしながら、極めて意図的に自己の表現を描きだした。彼の作品『海壁』『ルポルタージュ炎』『わが愛北海道』などがそれである。すべて電力会社の企画映画であった。
60年代の私はもっぱらTVドキュメンタリーに活路を見出だそうとしていた。『日本の地理」シリーズは日本の各県のルポルタージュである。事前にはラフなシノプシスしかなく、現場でのある程度の改変が許された。このシリーズでドキュメンタリー映画の習作が可能であった。しかしスポンサーはあった。彼等は体制批判の映像には敏感に反応し、放映禁止と全面的改訂を要求した。それは作り方には十分に配慮されていた。だが「暗い」とか「軍事基地問題にかたよる」といった理由で私の二作品が放映されなかった。これは意外であった。日本の矛盾をかなりセーブしながら作ったつもりだったからである。当時テレビには“影のコード”があり、反米、反安保、沖縄問題、在日外国人、部落差別問題、公害問題には神経を尖らせて自己検閲していた。つまり体制にとって刺激的なテーマは忌避されていたのである。
私は岩波映画に入って1年でフリー契約者になった。それが私の実態だったからである。しかし仕事はもっぱらそこでしていた。その当時の仲間に監督の黒木のほか助監督の東陽一、小川紳介、岩佐寿弥などの演出部、カメラマンの鈴木逹夫、大津幸四郎、田村正毅、奥村雄治、録音の久保田幸雄などがいた。彼等と私は研究会を作って、状況に対応できる映画のありようを求めて討論を重ねた。会は誰でも参加でき、いつでも止めることができたが、この研究会、「青の会」は二年間、ほとんど毎日続けられた。もっぱら酒場でのミーティングであり、酔ってさらに喧騒を極めるのが常であった。しかしテーマはつねに会員の撮ったラッシュの分析であり、そのスタッフの発言で盛り上がった。良い1シーンの分析討論に一晩費やすこともしばしばだった。この場ではカメラマンも録音も演出も差別なく論議に参加した。この会を通じて、次回作のスタッフが構成できるようになった。誰とスタッフを組もうと、お互いに知り尽くしていたからだ。この「青の会」のスタッフを母体に、やがて私の『ある機関助士』(1963年)、『ドキュメント路上』(1964年)、黒木の初の劇映画『とべない沈黙』(1964年)などが作られた。それぞれにとって画期的な仕事となったものだ。
だが問題はあった。私の二作品はスポンサード映画である。資金は全額注文者から出されていた。『ある機関助士』は大事故を起こした国鉄当局が名誉挽回を計って企画されたものであったが、事故の原因である過密ダイヤの運行密度はすこしも改善されなかった。この作品は国鉄の安全運転がもっぱら乗務の機関士、機関助士の注意力の限界までの駆使によって保たれていることを描いたものだ。安全運転は乗務員の規律と注意力によって保障されるほか無かった。一見平常な走行すらいつも事故と隣り合わせの危険をはらんでいるを感じさせるものだった。完成後、この映画の反体制的な匂いを嗅ぎ取ったのは、PR映画の専門批評家たちだった。彼等は「国鉄の安全映画ではなく、非安全を知らせる映画だ」と主張した。当然オクラ入りになる危険性があったが、映画として各種の映画祭の賞を独占し、結果として公開をみた。
これに続いてつくった『ドキュメント路上』は都市の交通安全、とくに自動車事故防止を目的に企画された映画だった。これは警察庁交通局をスポンサーに当て込んでいたが、出来上がった映画は都市のアナーキーな交通状況を告発するものになった。翌年の東京オリンピックに合わせて、路上はいたるところが改修工事で掘りかえされ、車優先の交通システムは歩行者を無視したものになっていた。一年間の死者12000名、負傷者320000人というまさに“交通戦争”と呼ばれる時代だった。事故を防ぐのは歩行者、運転者の自衛本能をとぎすますしかないというメッセージの映画になった。ナレーションを入れず、映像だけでメッセージを受け取られる映画にした。だが、スポンサーは有効性がないという理由で非公開にした。これも後にエジンバラ映画祭のディプロマ・オブ・メリット賞ほか国内で各種の賞を得て、ごく限られた上映のみ許されるという結果となった。
この二作についての私の自己評価は、やはりPR映画には限界があり、他の製作状況を開拓するほか活路はないという結論だった。だがそうした条件には恵まれなかった。
この頃、私はTVドキュメンタリーの場で製作意欲を持っていた。最近亡くなったTVドキュメンタリー・プロデューサー牛山純一の主宰するNTVの『ノンフィクション劇場』で連作した。後に私のライフワークになる水俣病問題に触れ得たのも、ここで『水俣の子は生きている』(1965年)という作品を発表したからだ。
ここでも製作中止というデッドロックにぶつかった。その作品はアジアの留学生をテーマにしたもので、日本のアジア軽視を絵に描いたような事件を題材にしていた。
その時期、東南アジア諸国は激動していた。ベトナム戦争はついにアメリカの北爆にエスカレートし、泥沼化していた。同時にそのその周辺諸国は独立運動の高まりのなかにあった。シンガポールからの留学生チュア・スイ・リンが日本からの追放の憂き目にあったのも、祖国の独立に無関心でいられなかったからだ。彼は祖国マラヤの英連邦からの独立にあたり、真の主権をもとめて東京でイギリス大使館にむけ在日留学生のデモを組織した。このことが発端となって彼は祖国からの帰国命令を受けていた。が、帰国は即逮捕を意味していた。
日本の文部省は彼を危険分子扱いし、留学生としての国費の支給を絶った。ついで留学中の千葉大学は学則を無視して除籍処分にした。チュア君は文部省を相手に訴訟をもって国費打ち切りに抗議するとともに、千葉大に除籍の撤回を求めていた。異国にあって風前の灯であったのである。
この企画はクランクインの前日、NTV局の自主規制で製作中止決定が出された。「裁判で係争中の事件だから一方的にチュア君の立場に立っての製作はTVの規制に該当する」というものだった。これに抗議し時間を費やす余裕はなかったので、すぐに自主製作に切りかえた。NHKが同様な企画を立てながら一方的に放棄していた。さらに民放もそっぽをむけば彼に味方する世論は無くなる。しかし、チョア君のパスポートの期限などから撮影を遅らせることはできなかった。資金にあてはなかったが友人のプロデューサーが機材を保障してくれ、旧知のカメラマンやスタッフがボランティアでカメラを回してくれた。こうして自主映画『留学生チュア・スイ・リン』は出来ることになった。
彼の孤立した立場は千葉大の学生の支援の有無に掛かっていた。だが千葉大の日本人学生には、留学生部という隔離された世界のなかの出来事を知らされていなかった。映画スタッフは少数の日本人学生の間に「チュア君を守る会」をつくることを提案し、帰国期限の一か月前という緊急性を訴えた。やがて学内で映画が撮影されはじめ、チュア君の行動と声を収録するにつれ、その撮影行動自体が日本人学生の関心を集めた。はじめて千葉大の醜態があきらかになったのだ。こうして三日間、少数の学友で守られた運動はやがて全学数千人の抗議行動に組織された。大学は予想しない事態に動転し、チュア君への対応を迫られた。学生は学長を包囲し、各責任者に実力で解決を迫った。千葉大始まって以来の全学の学生運動に発展したのである。
もし映画の撮影行動がなかったとしたら、これだけの素早い行動は起きなかったであろう。幸い除籍は撤回され、私費ではあるが学生の身分を回復し、日本で勉強を続ける条件ができた。
この記録映画『留学生チュア・スイ・リン』(1965年)は主人公にたいする荷担で貫かれている。客観的な第三者的カメラではなかった。主人公とともに叫び、闘い、苦しみを分かつものだった。これはTVドキュメンタリーではなしえない作り方だった。「報道は公正中立であらねばならぬ」というのは常識である。しかし、このチュア君の場合、それで彼を守れたろうか。
この映画の体験は大きかった。ここで対象とともに闘う「荷担者としての映画作り」という道が発見できた。これが私のその後の映画に強く影響しているのである。
学生運動を扱った小川紳介の『青年の海』(1966年)、『圧殺の森』(1967年)も学生とともに悩み、生活と闘いをともにした映画である。学生への荷担の立場は鮮明である。そしてこれらが自主製作の映画である点、日本の記録映画の転換がはじまったことをあきらかに示している。TVの自己規制、萎縮が自主映画の存在価値を高めることになった。
1960年代後半、フランスのいわゆる五月革命、中国の文化大革命、アメリカのベトナム反戦運動などの高まりは日本にも波及し、各大学の民主化運動となって現れた。事態は全学ストライキ、学校の封鎖、自主管理へと発展した。そしてつねに警察・機動隊との衝突を繰り返すようになった。
アメリカ、フランスのミリタント映画も日本に持ち込まれ上映された。これに刺激され、日本の映画作家たちも呼応して、いくつかのドキュメンタリーが作られた。さきにのべた小川紳介の主宰する小川プロダクションの成田国際空港の工事強行に反対する農民の闘争を描いた映画などがそれである。
この闘争は農民の実力による武力闘争の様相を呈してきた。権力に立ち向かう、農婦をふくめ青年行動隊を中軸とする三里塚・芝山連合空港反対同盟の組織的闘争は、映画『日本解放戦線・三里塚の夏』(1968年)に結実した。いわば農民戦争の記録であると同時にミリタント映画でもあった。
一方、1968年、学生の反乱はそのピークを迎えていた。69年初頭には学生の東大占拠に1000人余の機動隊が投入された。全国の数10に及ぶ学園闘争はつぎつぎに機動隊によって襲われ、つぶされた。そのなかで最後まで教室を拠点にし、執拗な抵抗をしたのは関西の大学、とくに京都大学であった。その京大闘争を描いたのが、私の『パルチザン前史』(1969年)である。
これは“パルチザン”として武装された闘争集団を形成しようとした学生の記録である。占拠した大学にバリケードを作り、受け身の闘いを強いられた状況から街頭に打ってでて武装闘争を広げようという過激な少数の闘争だった。その集団の決起から敗北までを映画は描いた。大学のシンボルの時計台の占拠とそれに対する機動隊の攻防、市街戦さながらの火炎ビンによる攻撃と機動隊の催涙ガス銃の一斉射撃など、ミリタントな映像に事欠かないが、この映画ではそこまで追い詰められた学生の主張と心情をとりあげている。ラストは敗北の後どこでどう闘うのかの模索で締めくくられた。この映画は同じ状況下にある全国の学生から共感をもって受け入れられた。これを最後に学生の反乱は沈静化された。
彼等の政治的構想力の狭さ、その大衆から遊離した武装闘争の提起はいまは反省すべきである。しかし彼等が目指した革命への願望はいつの時代にもある青年の現体制批判の原点として記憶さるべきであろう。戯画化されかねないテーマのなかに彼等の青春を描いたつもりである。
この映画を転換点として私は公害の原点と言われる水俣病の映画にかかることになる。
1970年、社会問題は個別に集中的に水俣病など公害問題と三里塚空港反対運動に現れていた。水俣病は重化学の巨大企業チッソの利潤追及の影に起きた事件である。海に排出された毒によって、魚が汚染され、動物が死に絶え、ついに人間を倒した環境汚染による殺人障害事件であった。70年代に日本の辺境に起きたこの有機水銀中毒事件は、患者の裁判闘争への決起によってはじめて広く知らされた。最初の被害者発見から17年が経過していた。しかし、TVメディアのこれに対する報道は少なかった。スポンサーによってなりたつ民間放送は、国と資本のこの問題に対する消極的な姿勢に左右されなかったとはいえない。
『水俣-患者さんとその世界』(1971年)は自主映画として企画され、患者の闘いを支援する「水俣病を告発する会」の活動に支持されて作られた。この映画以後、TVメディアの追跡が開始された。誰の眼にもあきらかに自主映画が状況を先導した。こうして自立した映画集団によるドキュメンタリーの開花の時期を迎えたのである。
海の公害には私が関わり、陸の三里塚問題には小川紳介が関わり、それぞれに連作した。
70年代、他の多くの社会的ドキュメンタリーの輩出の時代を迎えた。日本の“奇跡の成長”のかげで、内部に潜む矛盾は多岐に渉って存在していたからである。「日本はドキュメンタリーの宝庫」といった矛盾にみちた流動の時代は、この70年にピークを迎えたと言って良いだろう。映画はまさに時代の鏡だったのである。
1997,12,20