「私論 黒木和雄の全貌」、「ある映画監督私論-黒木和雄の『泊橋』を見て」再録 『映画作家黒木和雄』所収 初版10月31日 アテネ・フランセ文化センター・映画同人社 <1997年(平9)>
 「私論 黒木和雄の全貌」、「ある映画監督私論-黒木和雄の『泊橋』を見て」再録 『映画作家黒木和雄』所収 初版10月31日 アテネ・フランセ文化センター・映画同人社

 黒木和雄の二年ぶりの新作『泪橋』をみた。観おえて、二十数年前の岩波映画時代の傑作『ルポルタージュ・炎』をしきりに思いだしていた。それは電力会社のPR映画という枠の中で、自由奔放に映像をふきあげた、今日の黒木の前駆的作品であった。その共通するものはバランス喪失のぎりぎりまで振り切った作家としての打棒の芯のつよさにおいてである。『泪橋』には、みる側の私のバランスをもつき崩さんばかりの映画的な文法破壊にスリルをおぼえた。脚本のゆえだけではない何かがあった。それが記録映画をつくっていた頃の彼の作品にまで思いをさかのぼらせたうらには、私と彼との四半世紀のつきあいがあってのことであるが……。
 いまこのペンをとりながら、私はいわゆる「批評」を客観的に書ける立場にも役割もないと思っている。ただ、それだけつきあい、映画論をかわしあってきたにもかかわらず、彼の映画にまだ分らないことがいっぱいあるからだ。だめな解読者であると思う。しかしその未知の魅力のぶんだけ、彼の映画についての誤読や思いが湧くのである。
 この作品でデビューした佳村萌も、私を一挙に二十年前の彼の最初のフィクション『わが愛北海道』(61)における真理明美のみずみずしい登場ぶりを思い出させた。当時、カバーガールに出ただけのしろうと(及川久美子といっていた)の起用だった。短篇でもあり、ハード専門の会社のカラーからいって、狂言まわしていどの出演だろうと私たち仲間も思っていた。しかし青年とのであいから、ニシン御殿でのいろり火はてるかたわらでの愛のシーンに昇りつめるもので、破格のはみだし映画となり、大いにもめたものだ。だが、真理明美は自然な姿態と容貌のまま流れるように作品の中で生きていた。いわゆる俳優に対する演技の指示はこの場合、どのようにしてできたのか、みなにとってなぞであった。数年して、加賀まりこによる『とべない沈黙』(66)が発表された。このときの彼女のあやしさに再び息をのんだものだ。女優から何か独得の美をひきだす、花弁を開いた瞬間のようなその精彩に、私たち仲間のあいだでは、ある黒木伝説を生みもした。そんなあれこれが一挙にこの『泪橋』の佳村萌の出場につけて思い出されたのである。
 彼はいわゆる劇映画を作る大手会社につとめた経験はないに等しく、映画修業は記録映画からであった。作品を通じて学ぶ映画監督は黒澤明であり、ゴダールであったとしても、演出技法を学んだ師はひとりもいない。
 フォース、サード、セカンド、チーフと十年あまりの助監督期間に、数人、十数人のベテラン監督の演出を「盗む」機会は彼にはなかった。この映画監督へのプロセスを飛ばして黒木は劇映画の世界に入った。その点、映画批評家から監督となったゴダールと似ている。黒木和雄を語るとき、この彼の当時としてはまったく手さぐりで扉をこじあけてきた過去をぬきには語れない。少なくも私にはそうである。
 佳村萌はこの映画をゆりかごとして誕生したようだ。ある青さが映画の進行につれて紅みにかわるといったいわば孵化の過程をみるようだった。それが青春映画や初恋物語なら別だが、実に難役を負っての現代因果の物語である。唐十郎(シナリオ)一流の混とんとしたストーリーの中ですっきりと存在感のある女を放ちつづけた。
 過去を語らない女、老人たちを狂わせる女、ヌードシーンはおろか、セックスシーンから入水自殺、近親相姦……と、ときにはサディスティックな設定があるにもかかわらず、じつはストイックなまでにピュアで綺麗であった。その存在自体が映画として描きたかったひとつの夢であるかのようだ。だが演技としての成果、演出術なるものに即して言えば、名伯楽が若駒にまたがり、むちうってレースに勝たせたといったものではなさそうである。
 「ぼくは芝居を演じる人をみるのが、珍しくてあきないんだ」とロケを見物している少年のようなことをいう。まじめに言うのでふき出す。それで監督できるはずはないからだ。しかしどうも彼には俳優に対する少年の初心のような気持があるらしい。俳優にもそうであろうが、女優に対しては畏敬に近い感情があるようだ。新人であれ、スターであれ、カメラの前に立つ人間におそれをもつ。というか、むしろ、あいすまなさ、罪つくりの情がまず働くようだ。
 俳優に脚本があり、セリフや演技の工夫がある。現場にはカメラとマイクがある。そのただなかに、たとえば彼女がいる。プロフェッショナルなスタッフによって劇化がこころみられ、演技が形づくられていくプロセスのなかで、彼はひとりポツンと立って眼を対象だけに注いでいることがある。そんなとき、黒木は彼女の素顔というか、地というか、その人だけのもつ魅力を探しているのかもしれない。まずそれがつかめて、はじめて劇のなかのヒロイン像にだぶらせていく。前景にまずなまみの人間があり、次に俳優としての彼女に共感していくといった順序に見える。それだけにカメラマンらに求めるものの方がよりつよいであろう。やはり、映画をつくる上でさけられない罪業感が彼にはひといちばいつよい。そうでなければ、真理明美にせよ加賀まりこにせよ『泪橋』の佳村萌のように黒木を「ゆるし」たうえの、のびやかな姿と顔に撮れるものではないだろう。新人起用の場合、とくにそれがはっきりする。佳村萌の場合も、その妖精のような美しさがとらえられていた。
 逆にこの映画のなかの原田芳雄についてもいえる。黒木作品と原田とはどこかでセットになっている。原田はどんな端役ででていても、黒木の作品のへソのように中心にいる。今回、いわば悪役であり、観る側では悪と分別したいのだが、千鶴を近親(兄)相姦する過程も、殺したあとの彼も、ひたすら悲しく哀れに見える。悪の価値観のつきとおらない人間を演じている。シナリオのセリフ通りなら憎々しくなってもいいのだが、映画の中の原田は善悪をこえた存在感をもっている。いかにもやりにくい役柄の主人公白井を演じた渡瀬恒彦にしても同じものを感じる。それが黒木の演出といえばそれまでだが、どこかでカメラの前にあるひとにくらべ、カメラの横、うしろにいる自分への小暗さ、うしろめたさ、つまり罪つくりであることを除きえない黒木への側隠の情あってのことであろう。原田の背徳者の役の造型の中に、悪役のタイプをめざすのではなく、どこまでも原田自身のもつ「悪」にまでみずから堕ちようとする内発性を感じる。その種の演技をみるとき私はストーリーをぬきに、映画の劇的なるものに触れる。映画の表現の固有性に魅せられるのだ。黒木がストーリーを軽んじているというのではない。あくまで私の映画のみかたである。
 だがたしかに黒木作品の場合、ストーリーや構成のバランスのくずれないまでの打棒のふり方がある。その鮮やかな例はラストだ。水死体となった佳村萌が渡瀬に抱かれているながい時間のあと息をふきかえすシーンである。それは冷えたカメラアイではじまる。ぐったりと仮死(死んだものと観客も思っているのだが)の千鶴(佳村萌)を抱く白井(渡瀬)。息をとめるのは幸いことだ。ながいながいニラメッコしましょである。そのうちに千鶴の鼻がピコピコうごく。胸が波うちをはじめる。生色がよみがえる。息をすう。ああよみがえった……この長いワンカットだけでも、筋に関係なく面白い。仮死の演技の記録として面白い。ましてドラマのラストの蘇生シーンである。私はわけもなく救われて深呼吸をしてしまうのだ。フィクションとドラマのはぎまに執着する黒木にとって、カメラマンが、いつも鈴木達夫、堀田泰寛、根岸栄、田村正毅、そして今回の大津幸四郎といった記録映画出身のカメラマンであることは偶然ではないだろう。
 ドキュメンタリーと劇映画の間にある通念としてのかべを、演出のプロセスとしても、編集のしかたとしても自由にゆききする黒木らしい手法・思考が今回の『泪橋』にきわだっている。そこがまた私にとっての魅力なのだ。この種の魅力は今村昌平のいくつかの試みのほかに知らない。記録映画と似ているがちがう。そこには観ること即ち批評という黒木の諧謔性と見とれているといった美への望みがともにあるからだ。
 私のカナダの友人が「日本映画にみる日本の歴史」という映画展示をトロントでみて、篠田正浩作品『卑弥呼』にはじまる十本近い映画を見たが、『竜馬暗殺』は字幕を気にしないで見れた唯一の映画だったといい、あるフランス人は『とべない沈黙』はサイレント映画と通ずるとのべたのを思い出す。どこかにことばや物語性をこえて、映画への食欲をみたす映像の力が彼の映画にそなわっているのではないだろうか。

 『泪橋』はしかしエピソードが多すぎる気がした。日常生活の舞台、主人公のマイホームの舞台と川むこうの泪橋とその人びとの世界、さらに千鶴を介しての千鶴しか知らない兄の下うけどころか孫うけ工場とその人びとと三重四重の構造であり時間軸は戦中から戦後、四十年代から今日まである。そのどのチャンネルもひとつの物語がのびそうなディテールをもっている。さらに加えて、象徴的シーンが随所にある。たとえば、運河でドブさらいしている伝馬船の男、よくみればあの石橋蓮司である。毎日その仕事をしている。運河かいわいの定点的人物像でこれ以下の生き方はなかろうと思わせる設定である。劇に何のからまりもなく、ただ川の生活の点景ともうけとれる。だが印象はつよい。こういうところへの彼のこだわりは一体なんだろう。分らないが、もしこのシーンがなかったとしたら、あの運河の臭いは色あせることはたしかだ。
 海のカモメが泪橋の上空を徘徊して舞いつづける。「もともとあった浜を覚えていて、必ずそこに舞いもどる」という。埋立地は生きものにとっては無縁の空間であるはずだ。このカモメについてかたる男女の会話はあとあとまで糸をひいている。かもめまう泪橋にとつぜんオイラン姿の小紫が現れては消える。これもまた何の脈絡もない。しいて言えば、もと歌舞伎に狂った旅役者、いま古着なおしで旅まわりの衣装や古道具をかすのを商いとしている兵藤加吉(前進座・瀬川新蔵)と地玉子屋(殿山泰司)の幻想上の人物である。が、劇の進行にとっては、暗喩以上のなにものでもない。それらをすべて皿に盛るとき、彼は大食漢としか言いようがない。それは主人公白井健一(渡瀬恒彦)にしてもあてはまる。乱暴にいえば、実に観念的な存在であって、どのようにもうけとれる。
 この映画を見たのち、あらためて村松友視の原作をよみ、唐十郎と彼との共作シナリオを読んだ。というのは、なぜ、黒木がこの原作にこころ惹かれたのかを知りたかったからである。とりわけ、白井のキャラクターに戸惑わざるをえなかった。英語の百科事典のセールスマンが、十年ぶりに泪橋界隈に足をふみこむ。かつて羽田闘争の頃、追っ手から身をかくまってもらった老人たちのところをたずねるくだりで、老人は元カゲキハと思いこんでいる。しかし彼はノンポリもいいところ、羽田闘争をよそめにホストクラブに働く、ヤクザの女のヒモであったーというのだから、ひっかかる。よもや黒木と唐の合作の人物では、と思い、原作をよんだが、まさに映画どおりの設定であった。
 渡瀬恒彦のいかにもわけありの暗さと、あるていど出来上った男の顔を見ていると、最後にやはりカゲキ派であったというどんでんがえしがあるのではーとつい思いこんでしまったのだった。
 黒木はなぜこの原作・この主人公を映画化したいと思ったのか。彼は黒木の分身なのか。あるいは黒木の劇づくりのキメ手なのか。
 あえてじかに黒木にただすと「ぼくの主人公はいつもどこかしまらない人間ばかり」という。そういえば『キューバの恋人』のアキラ(津川雅彦)にしても女を追いかけまわし、眼前のキューバ革命の危機を見ない風来坊としてあったし、『竜馬暗殺』も、いわば滝田修のように、時代と個性のめぐりあわせの中で、「梟雄」とされ、本人は大義の枠内外を縦横に走りまわっていた男であった。『原子力戦争』は女たらしのしまらないヤクザであった。きわめて精緻なシナリオ(中島丈博)にもとづいたといわれる『祭りの準備』も間のはしはしが面白かった。
 黒木に分らないところがあるというのはこうした主人公の群をつなぐときにうかがいしれる主役像のかたよりである。今日、劇的ヒーローを夜郎自大的に描くNHK大河メロドラマ的な試みをする作家は少ない。むしろ破滅型であり、あるいは無思想でアナーキーな人間群であろう。だが黒木の場合、その典型を英雄として描くといった趣きはなかった。まして悲劇的な人物ではない。『竜馬暗殺』は哀切なまでに喜劇であったと思う。
 この『泪橋』の主人公の場合、原作もシナリオも映画も、ひと通りのことは一応やってきてなまなかのことには胸騒ぎしないタイプの男である。「ああしたい、こうしたい」というたぐいのセリフはない。受けのセリフ、ひっかかりつっかえるたぐいのものばかりでいたってたよりない。ふつうの映画のヒーローにみる「主役」の勇ましさはほとんどない主役である。その点ぬくぬくとした日常にいつでももぐりこめる男の非日常の日々の話である。
 黒木にはさきほどふれたように諧謔精神というかパロディの癖がある。まとも、まじめ、すなお、おひとよし、ぶるもの、それらを笑いとともに否定する構造の作品で力量を発揮してきた(『竜馬暗殺』はそのよい例であり、『とべない沈黙』は全篇蝶の眼でみた人間世界の矛盾への哄笑であったともいえる)。この構造づくりのなかでは、主人公は偉物ではありえない。この渡瀬恒彦の演じる白井は泪橋に一歩入ればもとカゲキ派である。ヤバイことを許す世界が泪橋なら、まともな市民社会の価値観は彼のネグラ、妻との生活にすっぽりかぶさっている。彼はその二つの地を往復してそのどちらにも住める男である。ヤクザに追われ、羽田闘争の渦にまきこまれて、いつの間にか機動隊に追われる。本来機動隊にすがった方がヤクザをふり切れるはずなのに、一しょうけんめい逃げまどう。チャップリンの『モダンタイムス』の浮浪者がデモの先頭に立つというエピソードそのままだ。その「逃亡者」をかくまう老人たちの粗忽さを責められない。それが鈴ケ森の風なのだと思っている。渡瀬恒彦はその風にたすけられ、その風に懐旧の情を禁じ得ない。落ち目の彼を「出世した」と勘ちがいしてみせ、なおカゲキ派であった男とそれをかくまった老人たちの十年前の関係にたちどころにもどれるのが泪橋の世界である。黒木の描いた運河ぞいの十年一日変ることのない人と空気は哀しく、夢のように淡く、そしてなつかしい。だから主人公(渡瀬)は黒木の分身ではありえない。黒木がこの泪橋全篇で描こうとした、過去のふたしかな人びとの浸されていた戦後というもの、人それぞれのこし方の出来ごとをもろにすべてひっかぶる受動的人間として主人公はあった。主人公が積極的人間なら登場人物たちは変っていくであろうが、ここでは何ひとつ状況は変らない。彼がうけ身のまま変り果てていくだけだ。渡瀬はよくこの役にたえたと思う。だが黒木の描いてきた主人公たちのあるかたよりという点ではつながっている。根っからの弱者であり、生きること自体が営為である男たちのひとりなのだ。

 シナリオ化にあたって唐十部が原作からクローズ・アップしたエピソード、つけ加えた話は原作の淡白さと全くちがって演劇的な彩りをもたせた。原作にある「お上に追われて獄門首にされる科人たちへの哀れみみたいなものが、この辺の風となってずっとのこっている…」という鈴ケ森の今日とむかしをより合わせた卓抜な設定あってのことと、観察力でちりばめられたような多様な人間と行動のスケッチあってのことであろうが、この一篇の映画に内包されている出来事は厖大な駒数にのぼる。それはシナリオとしても「暴力的」でそこが妙に面白いのだが……。
 主人公のマイホーム的家庭、マンションをねだりつづける妻、その出産、気力を失ったセールスの仕事、謎の女にひかれる男の心のうつりかわりを現在の軸に、川むこうの泪橋の世界、歌舞伎にとりつかれた古着なおし屋(瀬川新蔵)と、そのつれの地玉子屋(殿山泰司)、二人と同じ地ゴロながら棋界の黒幕風の老人(藤田進)、古着なおし屋に十年前の主人公同様に身をかくしている千鶴、そのなぞめいた女にかかわる千石イエス的集団、戦犯問題、羽田闘争。軍人の父が戦地(タイ・アユタヤ)の仏像のひたいから盗んできた赤いルビー、このあたりからシナリオはルビーを触媒に、殺人事件、近親相姦、あげくの殺人未遂、救出、蘇生とストーリーは飛んでいく。現実と過去が相互に事実をバラしあって虚実の間をゆくようだ。およそ限られた時間の中に収拾しきれる話ではない。また舞台も話のはしばしにリアリティをもたせるとすればロケ地も東西南北、海外にまで飛ぶ話である。少ない予算ではもともとむり難題と思われるエピソードもだき抱えたままドラマは進行する。なみのつなぎでは不可能な話の量である。だが、これまたシナリオに劣らず暴力的ともいえるモンタージュでつっきっていく。それは私には波だつ外海にでたヨットのように危うく見えた。映画の半ばまでハラハラしながらみていた。ひとつには伏線のバラシ方が一拍ずつ遅れて分るもどかしさもあったが、戦後すぎさったさまざまな事件が陸続としてあらわれ、そのどのひとつも解決しがたいものとして非力な劇中人物をおそうからである。話もどんどん人間の心の底をあらい出し、現代の底層生活者として斃死せずにはいられないではないかと思わせる。その哀れなシャバを見つづけてきた泪橋の風景の中で、最後の一章がはじまる。それはさきにふれた蘇生にいたるシーンである。千鶴の兄があやまって妹を冒しながら、ノドをしめる。その亡きがらを抱えていき場のない彼。あやまって海に落す。千鶴は水没してゆく。追っかけてきた白井は海に飛びこむ。かつて白井をかくまい、いままで千鶴をかくまってきた二人の老人は彼らの「時代」が消えたことを知る。一切帳消しのどたん場から、長い長い救出シーンがまっ黒い海で演じられる。妹を救い上げる白井にその兄は「どこにも行けるもんか、どこにも」という。鈴ケ森刑場あとにうづくまった白井、彼に抱かれている死んだ千鶴。そこで前述のように一シーンとして独立して訴えるほどの印象をもって彼女はよみがえるのである。あっけらかんと明澄な幕切れに、所詮戯作の世界とつっぱなすように幻想の小紫が洞橋の赤い緋もうせんの上にたちあらわれて、鈴ケ森泪橋の場でおわる。
 村松友視の小説の結末は女の蒸発でおわっていた。だが映画は女の蘇生でおわっている。生き返っても難儀のくり返しであろうから、いわゆるハッピーエンドの感情はない。ただラスト全体からハッピーな生理がつたわってくる。「生き返ってよかった!」という理くつぬきの安堵と平明さがあるのだ。それがきわだつほどに、それまでのドラマは、こわれもののような各人の人生を暗示しており、それぞれのおとし穴にはまって死ぬような予感が描かれていたからでもある。老人、中年、若い女、どの三代をとっても出口のない話である。現代の小暗い理屈にならない奇妙な世界を黒木は描いた。そのラストが生理的にハッピーエンドであるとは、いかような作劇法であろうか。「生きたのなら、またやってみるさ」とだけ言っている気がする。この質のメッセージはセリフにもない。彼らしい、どん底の楽天性からの映像のパルスなのだ。
 小市民的で繊細で言葉寡なの村松友視の原作の世界は、シナリオでデフォルメされ、さらに黒木の演出でワイドな世界にひろげられた。そして全く質をことにした『泪橋』になった。はたして黒木は劇映画監督であろうか。彼は絵空事の映画、劇映画の方向を選んだ男である。ドラマとか演技とかストーリー性にこだわらないはずはない。彼がシナリオ・ライターに依頼するときの真摯さと期待の大きさはしばしば語りぐさになっている。そして共作といえども自分で加筆することはない。しかしその演出にあたって、どこに執着し、どこに自己表現の絶対値を託したのか。「シナリオと一言一句もちがわない」という。そのシナリオは本号に載る予定と聞いている。そのシナリオでもつ映画のイメージと、黒木の現実の映画を重ねあわせるとき、それはスリリングな映画的体験であるにちがいない。そして劇とかドキュメンタリーを冠し得ない、ただただ映画監督である黒木和雄をみることであろう。(敬称略)