水俣病-胎児性患者は今 『朝日新聞』 5/25 朝日新聞社
特等室と一等室に胎児性水俣病患者九人を乗せた大型高速フェリーが十八日夜、宮崎港を出港した。車いすの人は六人。世話人や介護する人、計二十四人も一緒だ。
船旅で一体感
豪華な船旅の予定だったが、年に数度というしけにあい、船は大揺れに揺れた。大半が船酔いに苦しみ、世話人の女性の中には倒れる人もいた。いつもは熊本県水俣市にある水俣病患者療養施設・明水園で介護を受けている鬼塚勇治さん(四二)は、逆に船酔いの園職員を気遣った。翌十九日夜、予定より三時間遅れて川崎港に着くころ、船上でともに苦しんだ人たちに、困難を乗り越えたという、ある種の一体感が生まれていた。
水俣病のドキュメンタリー映画を撮り続けてきた土本典昭監督が、彼らを船旅に招待した。加害企業チッソと直接交渉する自主交渉派の元リーダーでチッソ水俣病患者連盟委員長、川本輝夫さんが今年二月に六十七歳で亡くなったのを機に、土本監督は水俣入りしていた。川本さんの妻ミヤ子さんを励まし、患者に自立へのきっかけをつかんでもらおうと、「川本輝夫記念・洋上ツアー」を企画したのだ。
胎児性患者九人もが、ともに旅するのは、最近に無いことだった。その一人鹿児島県出水市に住む長井勇さん(四二)は「船に酔って大変だったけれど、みんなと会えて旅が出来た。成功だと思う」と話す。
彼らは、水俣病の初期の裁判闘争の中で、象徴的な存在を果たしてきた。写真家の故ユージン・スミス氏が撮った、母親が入浴させる場面は世界に衝撃を与えた。水俣病を見続けてきた原田正純・熊本学園大学教授(環境医学)が確認した胎児性患者は六十四人。うち十七人が死亡し、現在四十七人になった。みな四十歳を過ぎた。明水園に入院するほか、共同作業に通う人もいるが、家で家族と暮らす人が過半数とみられている。働く意欲はあっても、その場がないのだ。
今月十五日、胎児性患者ら七人をスタッフとし、天然酵母を使ったパンの販売をしている水俣市浜町の共同作業所「ほっとはうす」に、喫茶・交流コーナーがオープンした。責任者の加藤たけ子さん(四八)は「スタッフの夢をかなえさせたかった」という。水俣病による住民間の精神的な亀裂を修復する目的で、一九九八年に市の施設「もやい館」ができた。もやいとは、つなぎ合わせることを意味する。当初はそこで喫茶コーナーをやりたかったという。
水俣市内山の共同作業所「水俣ほたるの家」には、坂本しのぶさん(四二)ら二人が通っている。機織りや糸こんにゃくの袋詰めなどの作業が中心だ。自立への模索は統いている。
さゆりショー
実は二十一年前、洋上ツアーの参加者とほぼ同じ顔ぶれが、「石川さゆりショー」で熱く燃えた。当時、二十一、二歳だったが、自分たちで企画。宣伝カーを走らせ、ポスターをはり、前売り券を売った。胎児性患者がともにする、初めての「仕事」だった。
七八年九月二十二日、開館したばかりの市文化会館で「石川さゆりショー」が始まった。千八席の会場は満員。立ち見も出た。土本監督は公演を通して彼らが変化する姿をカメラで追い、ドキュメンタリー番組をテレビ放映した。
参加した坂本しのぶさんは「自分たちでできるかなと思った。みんなバラバラだったもん。でもみんなで一緒にやれた」と話す。原田教授は「水俣の歴史の中で、派閥を超えて何かをやったのはこれだけだろう。親が子どもたちの能力を見直した面もあった」と振り返る。しかし、ショーの熱気は長く続かなかった。再び個別の生活に戻っていったのだ。
市民との接点
その後の歳月は、症状の進行を加えていた。以前カメラが好きだった患者がシャッターを押せなくなっていた。車いすを使う人も倍に増えた。
いま、共同作業所ができても、胎児性患者と一般の「市民」の接点は、そう増えていない。取り巻く状況は、改善されているようには見えない。
ツアーを解散する時、土本監督が「川本さん亡き後、あなたたちが主役になります。あなたたちの存在が水俣病を伝えていきます。あなたたちは宝なのですから」と語りかけた。彼らはみなうなずいた。自分の意思を示し、確実に成長していることをうかがわせた。これからの日々、この共感が続くことを祈りたかった。