15年前の約束-絵ハガキ作りに寄せて 『アフガニスタンの秘宝たち』 初版8月31日 石風社
アフガニスタンはシルクロードの十字路といわれる。その疑いない証しは二十世紀に入ってからフランス、ロシア、日本、インドなどの考古学隊がつぎつぎに発掘した膨大な出土品による。ギリシャ・ローマ文明、インドの仏教文明、ペルシャ、中央アジア、中国などの東西文明の遺物と交易の跡が蘇り、世界の耳目はにわかにアフガニスタンに引きつけられた。近々この80数年来の発見だ。日本の正倉院に渡来している仏教美術の源泉が、中国や西域の遥かかなた、アフガニスタンのガンダーラやバーミアンにある事が知られてからは、日本の研究者たちもアフガニスタンの考古学者と組んで発掘と調査を積み重ねた。
十九世紀のイギリスなどが当時植民地だったエジプトの財宝をロンドンの大英博物館に持ち去った事例と異なり、今世紀、各国の発掘隊の手で出土したアフガニスタンの文化財の一級品は、まずカーブル国立博物館(以下、カーブル博物館と略す)に納められるようになった。こうした文化外交は、1919年、アフガニスタンのアマヌラー・ハーン王が第三次対英戦争に勝利し、小国とはいえイスラム圏で最初の「完全独立国」となったから誇りからなし得た英断であったろう。
以後、カーブル博物館は91年の民主共和国時代の終りまでは、収蔵品の散逸、国外流出、略奪を免れていた。のみならず、1978年、ソ連隊の発掘した今世紀最大の発見の一つといわれる、シバルガンの黄金秘宝もすべてカーブル博物館に収蔵された。よくアフガニスタンの文化財の破壊は「(ソ連の進駐以後の)内戦二十年による」と一括りで報道されているが、それは杜撰な言葉である。私たちが映画カメラを持って撮影に訪れた1988年秋には、カーブル博物館と文化財は完全な形で存在していたし、撮影できたからである。その翌89年に一部の代表作の疎開保管が民主共和国大統領ナジブラによってなされたが、91年にムジャヒディンのロケット攻撃で博物館そのものが破壊され、閉館を余儀なくされるまではカーブル博物館は存在していた。その後、イスラム主義者の「兄弟殺し」の」内戦に明け暮れた90年代以後の10余年に、カーブル博物館の文化財の 7割が失われた(2002年 5月、アフガニスタン文化情報省発表)。ゆえに厳密には内戦後半の出来事と言える。そして私たちは「在りし日のカーブル博物館」の最後のチャンスに、映画フィルムによる代表的文化財を経年的に記録することができたのである。88年11月である。
映画『よみがえれカレーズ』は88年 5月のジュネーブ合意によるソ連軍の撤退開始からクランクインし、約半年にわたって、転換期を迎えようとしているアフガニスタンの姿を記録した。そのなかでカーブル博物館や遺跡のロケは映画の眼目であった。アフガニスタンの数千年の歴史はカーブル博物館の歴史的遺産を語ることである。シルクロードの文物に凝縮されたギリシャ・ローマ、インド、中国、中央アジアの交流を描けるのはカーブル博物館の独断場ともいえた。アフガニスタンの歴史はその展示品の分析、解読から始まったからである。謎に満ち、知的にスリリングであり、若々しい歴史学の舞台と言えた。
不思議に思われるのだが、インドの象牙細工はここベグラムにしか残っていない。エジプトのアレキサンドリアのエナメルで彩色したゴブレット(コップ)の逸品も原産地の地中海沿岸からは出土していないという。乾燥台地でしかも閉鎖された土レンガの倉庫だからこそ腐食や破壊に耐えたといわれる。紀元一・二世紀のものが、この風土を幸いに原形をとどめて居る「ベグラム室」。またエ-ゲ海のヘレニズム世界の神話の神像や彫像、コインなどが、アレキサンダー大王の遠征によって運ばれたと言われる「アイハヌム室」。さらにガンダーラで有名な「ハッダ室」、最後の仏教美術が華ひらいた「ショトラック室」。こうした発掘地ごとにディスプレイされた展示室に、かつて写真で親しんだ宝物が目の当たりある。それらは時空を一跳びして、当時の作り手・工人の触覚の世界へ誘引してくれるのだ。
撮影は特別に十日以上許可された。フィルム記録はアフガニスタンには残されていない。意外にも世界では初めての映画撮影という事だった。
照明で光沢をつけ、レンズで焦点を絞り、旋回して見る全体像の凝視は、新ためて新鮮な発見を促した。また、ケースから取り出し、自由にカメラアングルを決められた。
撮影に当たって、スタッフは神経を集中できた。というのは、見学者がほとんど来なかったからだ。私たちのロケの十余日の間、まれに外国人が訪れるほかは“休館同様”だった。ある日、若い教員養成所の男女生徒の一群が「歴史の勉強に来た」以外、カーブル市民や学童などの来館は皆無といってよかった。何故か。それが後に触れるように、それが“カーブル博物館のカーブル博物館たるところ”であることに気付く。
さて、博物館には20人ほどの職員がいたが、所在なげで日に一、二時間しか仕事がないようだった。玄関にも他の公的機関に見られる民兵も護衛兵の姿はない。平和を切り取ったようなたたずまいが、そこにはあった。つまり静寂、閑散の日々だった。
博物館の映画撮影に入って二日目のこと、副館長で撮影の指導をするナジブ・ボパールさんから「この際、お土産用の文化財の絵ハガキを作って貰えないか」と頼まれた。「以前、日本に頼んで絵ハガキを作ったが、数年前に品切れになった…。二十枚くらいのセットでどうでしょうか。政府から予算を取るから…」という。しかしその見本すらなかった。
館長も副館長もソ連軍の駐留以後、人事の一変したなかで配置されたのか、かつての副館長だったモタメディー遥子(本書の解説者土谷遥子)氏はじめカーブル博物館とゆかりのある日本の人との繋がりは切れていた。アメリカはじめ西側に組する日本とアフガニスタンの政府間外交が、なかば断絶同様になっている現実はここにも表われていた。
撮影の高岩仁も照明の外山透とも相談の上、即座に引き受けた。「日本とアフガニスタンとのいままでの繋がりを引き継ぐことになれば…」と思ったからだ。
「絵ハガキを作る」という話はすぐ職員全員に知らされたようだ。よほど嬉しかったのであろう、手伝いにも力が入った。勤務時間も定時々々になった。映画の撮影も絵ハガキ作りのお陰ですこぶる順調に進んだ。だがひとつ分からないのは絵ハガキを果たして国語(現地語のダリ語、パシュトゥーン語)で作る意思があるのかどうか。ナジブさんは「英語版が欲しい…」というのみだった。それは帰国後、制作の段階に持ち越すことにした。
文書こそ交わさなかったが、この約束はお互いに堅かったと思う。だが、その実現までに15年近くになろうとは!
その間のアフガニスタンの激動は予想をはるかに超えたのだ。
88年、半年ロケをして撮った映画『よみがえれカレーズ』は90年初頭に完成した。が、その副産物の『カーブル博物館の絵ハガキ』は遅滞した。私の入院などもあってすぐには着手できず、約一年を無為に過ごした。おかげで、実現のメドが立たなくなった。
かの国の内戦の激化により、日本からの通信も不自由になり、肝心の約束相手の副館長ナジブ・ボパールさんの所在も不確かになった。知人の新聞記者は「絵ハガキどころではない。カーブル博物館そのものが危ないらしい」と伝えてくれた。しかしその確認はできない。「いくらなんでも、この国の宝物を…」と、ただ安全を祈るのみだった。
博物館は市の南郊外の静かな環境にあり、世界に知られた「アフガニスタンの貌(かお)」ともいうべき国民の誇る存在のはず…例え市街戦の中にあっても、砲やロケットの標的にはされるはずはないと思い返す。こうした例がほかにあるとすれば名物モスクである。
例えばヘラートの「金曜モスク」やマザリ・シャリフの「ブルー・モスク」は明らかな誤射による破損のほかは無傷に保たれ、国民のイスラム千年の歴史への愛着が感じられた。またモザイックの補修は途絶えることなくなされてていて、映画はそれを丹念に撮った。
だがこうした“国教”のイスラム文化財への愛着と、カーブル博物館のもつイスラム歴以前のグレコ・ローマン文明、仏教美術などの遺産への愛着とは別物だった。
わずかの新聞報道から見るカーブル博物館の破壊と略奪は写真でも明らかになった。さらに決定的だったのはタリバンによる2001年3月のバーミヤンの大仏二体の爆破である。
それらは「異教徒の偶像であり、われわれにとってはただの石に過ぎない」とタリバンの軍事責任者は言う。その意味ではカーブル博物館は主に異教徒の信仰するギリシャ神話の神々や仏教・仏像の博物館であり、いわば破壊さるべき偶像の“宝庫”なのだ。その一掃と破壊はイスラム主義者としての“使命”としての行為にほかならない。
改めて文献を再読すると、かつてハッダの発掘の頃も、村人は度々白人・異教徒の所業としてフランスの発掘隊を襲い、苦しめたとか、マザリシャリフのモスクは異教徒の立ち入りを長く許さなかったとある。また土谷遥子氏によれば、アフガニスタンの歴史教科書には西暦7世紀のマホメットからで、それ以前の歴史は記されていないという。それならばカーブル博物館にアフガニスタンのひとびとが来るはずがない。「開館休業」のはずである。私たちの撮影中に珍しく教員養成所の若い男女の生徒をみたが、それは政教分離を政策に謳った民主共和国時代の教育方針が促したのであろう。「歴史の勉強にきた」というのも頷ける。アフガニスタンの時間感覚からは、その“歴史の発掘”もまだつい先頃からの事で、なじむ暇(いとま)もないというところであろう。カーブル博物館はもっぱら日本人や西欧のひとびと向けの段階であったと言えよう。
「自国の歴史に学ぶ」、これがアフガニスタンの教育に浮上するのは必然であろう。それは十年さき、二十年さきであろうか。カーブル博物館の蘇りと新生を祈りたい。
この絵ハガキをやや目立つ大きさ(注)にした理由は、いつかはアフガニスタンの国語解説付きでアフガニスタンのすべての小学校の壁いっぱいに飾って貰いたいからだ。その光景を想像しながら、いまはこの絵ハガキがアフガニスタンへの日本人のラブレターとして、世界中ににばらまいて頂きたいと思う。
-03年 5月-