随時連載「映画は生きものの仕事である」(1)デジタル時代に思う 『ドキュメンタリー映画のメールマガジンneoneo』 6号 2月1日 ビジュアル・トラックス
もう数年前になろうか、NEOの発刊を前に伏屋博雄氏がこのドキュメンタリー・マガジンに毎号、記録映画論のようなものを連載したいと申し出られた。その意図は殆ど察することができたし、好意とも受けとったが辞退した。とても“論”というか、指標となるような理論を持てなかったからである。それは今も変わらない。ただ、映画を作る過程を吐露し、その都度、意見百出を待つことの魅力は失っていない。私は自分の「迷い」や「自信のなさ」をあからさまに口にしてきた節がある。むしろ、その“自虐”によって、それらを克服することの術すら手にしてきたようだ。「…てんゃわんや、口角泡をとばしての現場」、「とんでもないことを言い出すスタッフ会議」。そうしたプロセスがドキュメンタリー映画にはつきもの、という体験をしてきた。だから“ドキュメンタリーはカクカク…」といった整理された所説は苦手、それどころか、言ったことに自縄自縛になる恐れがあって、“逃げた”。
それに、言われた当時は作品を作る状況に恵まれず、体調の劣化から撮影現場からは遠ざかり、古希を越え、専ら回顧的に作品の纏めにかかるといった“惰性”になるのでは…と予防線を張ったが、その後、次号から触れるように、自宅で構成・パソコン編集に親しむ条件が整い、再び、映画作りの“過程”に復帰した形になった。アフガニスタン、水俣についての“新作”ビデオ化…主なしごとはそれであった。
NEONEOの前号で大阪の安井喜雄氏の「映画はフィルムだ。フィルムで撮らなあかんで!」という声に首をすくめるのだが、いま、私はパソコン編集に嵌まっている。「これもムービー・ピクチャー(活動写真)だ」と思う。その変化は私の気分を変えた。映画作りの話を語ることが出来る…ならば、という気がしてきた。なによりDVの特性である原画の保持能力と編集の“推敲”に耐える“複写の劣化に少なさ”に励まされるのだ。ドキュメンタリー映画にとって、かつて乏しかった“試行錯誤”の可能性と時間性が見えて来た。
最近、小津安二郎の作品が戦前のものまで溯って放映される。その冒頭に「古い作品ゆえにお見苦しい所もありますが…」と断ってあるものの、その劣化したフィルムには耐え難い。サウンドネガも潰れたのか、ノイズで台詞も聞き辛い。かろうじて作品の意図とストーリーを“解説”を読んだうえで判る程度だ。サイレント時代ものは骨董品でしかないのか。比べてみるのも酷だが、チャップリンのサイレント・フィルムはなんとネガの綺麗なことか。この時代から古典的評価を見通していたのかとアメリカ映画界の見識を思う。雨のようなすり傷だらけの映画、カラーなのに茶色の濃淡しかないモノクロ様の褪色は映画を殺している。あの亀井文夫の『戦ふ兵隊』すら、複写を重たせいか、軟調、白黒画面の名手で知られる三木茂の描写力は今は伺い知り難い。もしネガから起こしたら、映画的評価は一新するであろう。「…さすが三木さんのカメラは素晴らしい」などという評価を耳にすると、「あなたは発表当時のあの画質を観たのですか?」と訊きたくもなる。
閑話休題、今後、ビデオ・プロジェクターの日進月歩を期待できる。映画 100年の歴史性に加えて、IT時代の革新的な記録性は希望がある。同時に、なおフィルムの特有の映画的創作・表現力は不動であり、かつ競合的に深化すると思う。この映像の多元化に恵まれた時代にこそ、新たな発見があろう。それを述べるのも“生きものの仕事”と思うのだ。