随時連載「映画は生きものの仕事である」(3)『みなまた日記-匙える魂を訪ねて』について 『ドキュメンタリー映画のメールマガジンneoneo』 8号 3月1日 ビジュアル・トラックス
NEOの先号は友人、藤原敏史氏のことで頭がいっぱいであった。火災時の初期の対応が効を奏し、一週間後には氏から元気を回復したとのお電話を戴いた。最悪の事態まで考える癖のあるにしても、慶びとともにそれが大袈裟(?)だったとの気恥ずかしさもある。それはさておき、諸氏とともにいかにも藤原氏らしい早い軽快を心から喜びたい。
閑話休題。
このところ、仕上げた私家版ビデオ『みなまた日記-甦える魂を訪ねて』を前にして、腕をこまねく刻が過ぎていく。かつてのように新作から公開へと進めないなにかがある。もちろん数十本の試供用を作り、まずお礼を兼ねて、水俣で映画に撮らせて戴いた人、支えて下さった人に送った。その際に付した水俣の人への「手紙」の一部を紹介させて戴く。
「誤解を恐れずに言えばこれは“遊び”で撮ったものである。遊び…というのは、水俣好きの人間であり、同時に撮影も好きな私が、水俣病の死者の遺影を集める仕事の隙々にカメラを回したものだからだ。従って1995年前後の水俣一年間に限られている。遺影集めの一部始終は一切撮影しなかった。遺族から遺影を頂くのに、それは妨げになったからだ…」。
-私が通常、水俣にいくときは何時も映画作りに結びついていた。しかし、この95年一年は、水俣・東京展(品川)の遺影展示のため、過去40年の水俣病患者の死者、千余人の肖像(いわゆる仏間の写真)の複写に専心する事にし、その間はいわゆる映画作りをしないつもりだった。ビデオはそれ以外のメモないし記念写真として回した。それはいわば余戯であり“遊び”と言えた。
「手紙」を続ける。
「1990年代、私は“水俣病、いまだ終わらず”という荷の重い課題をどうしたらよいか に悩んでいた。映画をつくる自信が湧かなかった。その“申し訳なさ”ゆえに、遺影あつめに専心する事を自分に課したのかも知れない…」。
-この心理的背景には最少の説明を要しよう。
90年代前半は村山(社会党)内閣の政治決着の名のもとに、患者の救済を求める直接交渉はじめ、いくつもの裁判闘争(関西訴訟以外)がつぎつぎに和解に追いやられた、いわゆる患者主導の闘いが封じられた苦渋の数年だった。
同時に水俣一帯に行政による地域振興策の手が次々に打たれた。水銀ヘドロの浚渫・埋め立て地の醸成とそこでの一万人コンサート。水俣病資料館やメモリアル・オブジェの完成と祝賀。『公害の原点の地・水俣』での国際環境会議の招致などだ。
一方、それまで患者を市民から隔ててきた市は水俣病事件以来四十年、はじめての吉井正澄市長の登壇により転換した。水俣病犠牲者への正式の謝罪、ついで慰霊式行事が復活した。患者と市民の心を繋ぎ直すべく“もやい直し”運動やその為の「もやい館」が建設された。水俣病資料館では患者の語り部コーナーが設けられた。しかし語り部に要請された患者たちは半信半疑だったようだ。多くの患者が、行政のやることなすこと「すべて魂が入っていない」と見ていたからだ。
こうした激動にあたって私には映画をまとめる力量が不足していた。さきに手紙に「その“申し訳なさ”ゆえに、遺影あつめを自分に課した…」と記したのは本心である。
「手紙」に戻ろう。
「“記憶と祈り”は私の中では一致していた。しかし…。“記憶せよ”が私。だが、患者や遺族に、“もう忘れたい”という願望が生じた時期であった。遺影あつめは予想以上に苦戦した。その日々のなかで、いわば逃れる思いでカメラを手にした。この撮影はひとときの癒しであり、明日への深呼吸でもあったのだ」。
-“癒し”とか“深呼吸”というのでは言い足りない。火のまつりやえびす祭り、満開のさくらのもと躍る人々たちは私たちと会うのを喜んでくれた。遺影集めで直面した遺族らの表情とはま反対だった。水俣に暮らす人びとの素顔だった。
「手紙」…
「やはり、人びとと四季の移ろい、その患者さんの出来事やひとびとの振る舞いを撮るのは楽しかった。見慣れたつもりの風景にも微細な発見や驚きがあった」
-語り部・浜元二徳さんなどは“おれもそのつもりで喋るから一部始終を撮ってくれんな”と頼んできたりした。カメラで喜ばれるならで、ホイホイ撮った。こうして撮ったテープはその都度、水俣の宿でコピーし、当人たちに差し上げた。それは計10数に及ぼうか。私の“遊び”はそこで済んだ。気も済んだのだ。だから“新作”という気は持ちにくい。
96年、その間の20数時間のビデオを 2時間にした。「無題」(仮題『遺影・五百の旅』)を活弁(解説)で映したのはその 9月、品川の水俣・東京展での一回だけである。たまたま会場でその活弁が録音されていたので、今回その解説を使って再編集した。その時の声のフィーリングは二度と出せないと思ったからだ(整音は久保田幸雄氏にしてもらった)ただし、推敲して一時間42分に縮め、主題を「記憶と祈り」に絞った。
何故いま作ったか。その反省と再編集の動機は次の通りである。
10年前の撮影当時、まだ告発運動者の意識が強かった私には“運動の再生”こそ想ったにせよ、“祈り”はピンと来なかった。虚空に放たれていく観念に思えた。その祈りの事象は撮れても、その真実を撮ったつもりはない。“祈り”そのものがよく分からなかったのだ。しかし、この90年代の一年の記録に動かしがたいのは、彼等患者が水銀ヘドロの浚渫でできた埋め立て地を「父祖の墓場」として背を向けながら、その帰趨を見つめ、やがてこれを「聖地」に作り変えていった何ものかである。
かつて水俣病の“み”の字もなく「環境創造一万人コンサート」を企画した県に直訴し、“水俣病事件の幕引”を拒否した患者や「本願の会」が、数年がかりで“墓場”を『水俣病を記憶する場』(聖地)に作りかえていった。ビデオ『日記』の一年はいわば“埋め立て地の変貌の記録”になった観がある。たまたま遺影集めの一年に起きた時間序列の記録なのだが、“時”が語っているのだ。
“祈り”とはルイルイたる死者に手むけつつ、真の甦えりを希求する瞑想の時、“祈り”とは水俣の患者ならではの“記憶の内面化”ではなかったか。
去年、私は水俣に行き、患者、支援者が自作した野仏を見た。計48体が黙々と刻まれていた。その念力はまさに具象化されて、在った。それをビデオのラストに置いた。
その後も水俣はさらにその様々な生き方を探っている。胎児性水俣病患者を中心とした授産施設「ほっとはうす」しかり、全市一体となってのゴミ処理・再生の試みしかりである。それらはこの時代に繋がっている。十年経って気付くのは鈍感の一語に尽きよう。
「手紙」のラストにこう記した。
「数年後、改めて仮編集のままのビデオを見た。再発見があった。風化に抗して動く、“水俣のスピリット(魂)”が沈着していた。それは受難ゆえに到達したミナマタの精神の水位とでも言うべきか。未来を暗示する方向も秘められていた。カメラのこわさともいうべきであろうか」。
-この「手紙」を添えて水俣に送ったビデオを見た数人の感想が電話で届いた。ともに共通なのは、「コピーしていいか」とか「皆に見せて回る」といったはずんだものだった。「人に見せたい!」がまずありき、だ。水俣ならではと思う。私の水俣病の連作17本のなかで、これに類する反応は『わが街、わが青春-石川さゆり水俣熱唱』(78年)以外ない。ともに“遊んだ”作品と言える。これは何か。そこが分かるようで分からない。「映画とは何か?」と腕をこまねく所以だ。研究に値いしよう。
どうやら当面、水俣むけのコピーを用意することになりそうである。いまはその先は全く計画がない。いずれ、みなにご覧にいれたいが、時間を欲しい。今は“私家版”と明記しておいてよかったと思っている。
(04,2,23)